1.ナザレでの拒否
・イエスはカペナウムを去られ、故郷のナザレにお戻りになった。会堂で話をされたが、故郷の人たちは「この人は大工ではないか」といってイエスにつまずいた。
−マルコ6:2-3「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか』。このように、人々はイエスにつまずいた」。
・彼らはイエスの評判を聞いていた。しかしイエスはこの間まで彼らの仲間であった。特別な教育を受けたわけでもなく、ラビとして権威を持って帰られたのでもない。家族がつまずいたように村人もつまずいた。
−マルコ3:21「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」。
・イエスは故郷では癒しの業をされなかった。私たちの信仰が神を無力にするのではない。しかし、無信仰の場においては、神の業は働く余地はない。求めない者には与えられないのだ。
−マルコ6:4-5「イエスは『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」。
・この無理解の家族もイエスの十字架と復活の後には、イエスの弟子団(教会)に加わっている。家族伝道は難しいが、人の努力の後は神自らが働かれる。私たちはそれに信じて委ねればよい。
−使徒1:14「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」。
2.弟子の派遣とヨハネの死
・イエスはナザレの失敗の後でも宣教の業を続けられる。そして弟子たちを各地に派遣されることを決意された。
−マルコ6:6-9「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」。
・伝道の基本がここにある。私たちには神の杖(福音)があればそれでよい。他のものは必要に応じて与えられる。
−マルコ6:10-11「また、こうも言われた『どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい』」。
・伝道は同じ地に留まり続けることが大事だ。他方、私たちは宣べ伝えるだけであり、やるべきことをやってだめであれば、次の場所に行くことが求められる。現代的に言えば「牧師の短期移動は好ましくないが、行き詰った時には新しい任地を求めよ」ということなのだろうか。ルカ22:35−36では財布と袋と剣の携行が求められている。
−マルコ6:12-13「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」。
・この弟子派遣の記事中に、突然ヨハネの死の記事が挿入される。それはイエスの評判が高まり、人々がイエスのことを「洗礼者ヨハネの生き返りだ」とうわさし始め、そのことがヨハネを殺したヘロデ王の耳にも入ったからだ。
−マルコ6:14-16「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた『洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている』。・・・ヘロデはこれを聞いて、『私が首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ』と言った」。
・6:17以降はヨハネの死を描く。ヨハネはヘロデ・アンティパスが兄弟の妻ヘロディアを奪って自分のものにしたことを批判し、捕らえられ、終には殺された。ヘロデは預言者ヨハネを殺したことで良心の呵責に悩まされていた。
-マルコ6:19-20「ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」。
・イエスはヨハネの逮捕を契機に独立して宣教を始められた。今また、ヨハネの死を契機に弟子たちを派遣される。ご自身の死後のことを考え、弟子訓練の必要性を思われたからだ。12人の派遣はヨハネの死を契機にしている。
−マルコ6:30「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」。
・洗礼者ヨハネは説教し、引渡された。イエスもまた説教し、引渡されるのであろう。弟子たちもまた説教し、引渡される運命にある。世はヨハネを憎み、イエスを憎み、弟子たちを憎んだ。では私たちはどうなるのだろうか。