1.種蒔きのたとえ
・イエスはたとえを用いて多くの話をされた。マルコ4章はイエスの話された「種蒔きのたとえ」の話を記録している。イエスが宣教された福音の種がどのように成長するのかをイエスは人びとに話された。
−マルコ4:1-3「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた『よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った』」。
・イエスは「神の国が来た」と宣教されたが、律法学者やパリサイ人はイエスの言葉を受入れず、イエスに敵対していった。民衆はイエスの癒しを望んだが言葉は聴こうとはしなかった。その中で、イエスは、少数の者は言葉を聴いて従い、彼らを通して神の国は広がっていくとの確信を語られている。
−マルコ4:4-8「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。
・パレスチナでは、農夫は畑一杯に種を散布し、それから種を土にすき込む。道端に落ちた種は発芽しないだろうし、岩地に落ちた種は芽を出しても発育しない。あざみの種も穀物の種と同じにすき込まれるため、穀物の成長を妨げるだろう。しかし、良い地に蒔かれた種は豊かな実を結ぶ。イエスはそれを信じておられた。
-マルコ4:9「『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた」。
・イエスは「たとえを聞くだけでは何の意味もない。聞いて行った時にその意味がわかる」と弟子たちに言われた。
- マルコ4:10-11「イエスが一人になられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた『あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される』」。
・望まない妊娠をした時、多くの人は子を中絶して、自分の生活を優先する。日本では年間20万件の妊娠中絶がある。少数の人はその妊娠を神から与えられたものとして、戸惑い、恐れ、ためらいながら、子を産む。その時、子が与えられた喜びに満たされる。自分の都合で、自分の思慮で中絶する者には、この喜びは与えられない。
-ヨハネ16:20-21「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」。
2.たとえの意味をめぐって
・10-20節は初代教会がこのたとえをどのように聴いたのかが、示されている。「道端に落ちた種」は、自己の信念や経験を絶対のものとして、使信を聴いても受入れない人々のことであろう。当時も今もこのような人は多い。
-マルコ4:13-15「イエスは言われた『このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端の者とは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る』。
・石地に落ちた種とは福音も聞くが、同時に世の言葉をも聴く人である。神の国の言葉を世は受入れない。教会に癒しだけを求めてくる人は、迫害や困難があれば脱落していく。自己の救いだけを求める人は試練を受ける。
-マルコ4:16-17「石だらけの所に蒔かれる者とは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受入れるが、自分には根がないのでしばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」。
・茨の中に蒔かれた種とは、この世の思い煩いのために、信仰から離れていく人々のことであろう。特に金銭問題が人をつまずかせるとパウロは言い、私たちも経験的にそうであることを知る。
-マルコ4:18-19「また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」。
-?テモテ6:9-10「金持ちになろうとする者は・・・その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます」。
・しかし、神は御言葉を聴いて受入れる人を用意される。どのような時もバアル(この世の神)にひざまずかない者が残されている(ローマ11:1-5)。それを信じて私たちは宣教を続ける。
-マルコ4:20「良い土地に蒔かれた者とは、御言葉を聞いて受入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」。