江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年7月9日聖書研究祈祷会(ルカ15章、失われた者が見出された)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.失われた者の回復を喜ばれる神

・パリサイ人たちはイエスが徴税人や罪人と交際しているとして批判した。律法を守らない者は罪人であり、神の裁きの中にあるとパリサイ人は考え、そのような者と交際した人も汚れると考えていた。
-ルカ15:1-2「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」。
・その彼らにイエスは、三つの例えを話された。最初の例えは「見失った羊の例え」である。父なる神は保護下にある99匹を残したままで、失われた一匹を探し出される方だとイエスは言われる。
-ルカ15:4-6「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」。
・イエスは罪人の救いを喜ばれる天の父を示される。パリサイ人は罪人の裁きを望む。そうしなければ自分たちの禁欲や善行等の功績が無視されるからだ。彼らは律法の中核が、「隣人を愛せ」であることを忘れている。
-ルカ15:7「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。
・二番目の「なくした銀貨のたとえ」もそうだ。共同体から一人でも失われることを悲しまれる神の姿を見よとイエスは言われる。マタイの羊のたとえは「教会から迷い出た羊」の例えだ。
−マタイ18:12-14「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。

2.放蕩息子の例え

・ルカ15章の表題は「放蕩息子の例え」だが、実は「二人の失われた息子」の例えだ。弟息子は気ままな生活を求めて、父親に財産の分け前を要求して出て行く。彼は遠い国で放蕩三昧に遊び、財産を使い果たす。飢饉が起きた時に、彼は豚の食べる豆さえも食べられないどん底まで落ちる。豚はユダヤ人にとっては汚れの象徴だ。
−ルカ15:12-16「弟の方が父親に『お父さん、私が頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たした時、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた」。
・人は落ちるところまで落ちた時に、初めて悔い改める。彼は父の家に帰ることを決意する。父は彼が帰ってきた時に、何も言わず抱きしめ、着物を着替えさせ、手に指輪をはめ、足に履物を着せ、祝宴の用意を命じる。
−ルカ15:20-24「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。・・・父親は僕たちに言った『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』。そして、祝宴を始めた」。
・しかし兄は弟の帰還を喜べない。自分は何年も父のために働いてきたのにその報酬は少ない。それにもかかわらず、父親は弟息子のために祝宴を行う。彼の心は妬みで満たされ、弟を「あなたのあの息子」と侮蔑する。
−ルカ15:29-30「この通り、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。
・弟が罪人や徴税人であり、兄がパリサイ人を指す事は明らかだ。罪人の回復を喜べないパリサイ人こそ、失われているのではないかとイエスは彼らの悔い改めを求めておられる。
−ルカ15:31-32「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」
・自分は当然救われると思う人は外に投げ出される。救いはイエスの血によって買い取られた高価なものだ。
−ヨハネ3:16-17「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。

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