1.信仰と迫害
・パウロはテサロニケ教会を再訪したいと願っていたが、行けなかった。そのためテモテを派遣することにした。
-?テサロニケ2:17-18、3:1-3「私たちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。・・・私パウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。そこで、もはや我慢できず、私たちだけがアテネに残ることにし、私たちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした」。
・テサロニケの信徒は邪宗を信じる者として、同胞から迫害を受けていた。ローマ帝国により処刑されたイエスを主と仰ぐ信仰が、帝国内で危険な宗教とみなされたのは当然であった。テサロニケでは排斥運動が起きた。
−使徒行伝17:6-8「『世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。・・・彼らは皇帝の勅令に背いて、イエスという別の王がいると言っています』。これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した」。
・パウロはここで、キリスト者になることはこの世では苦しみを受けることである事を明言する。
−?テサロニケ3:3-4「私たちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。あなたがたのもとにいたとき、私たちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました」。
・キリスト者はこの世で何故苦難を受けるのか。それはキリストがこの世に属さないように、キリスト者も属さないゆえであると主イエスご自身が言われている。
−ヨハネ15:18-19「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。
・迫害を受けてもなお信じ続けるのか。それはここに何物にも代えがたい宝があるからだ。
−マタイ13:44-46「天の国は次のように例えられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払ってその畑を買う。また、天の国は次のように例えられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
・心は燃えていても肉体は弱い(マタイ26:41)。苦難の中にある信徒を励ますために、パウロはテモテを送った。
−?テサロニケ3:5「もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし私たちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです」。
2.相手の救いを喜ぶ信仰
・パウロたちは、ピリピ、テサロニケ、ベレアでは迫害を受けて町を追われた。アテネでは無関心の中で伝道に失敗する。コリント伝道も始まったが、うまく行っていない。そこにテモテからうれしい知らせが届いた。
−?テサロニケ3:6-7「テモテがそちらから私たちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもって私たちを覚えていてくれる事、更に、私たちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたも私たちにしきりに会いたがっている事を知らせてくれました。・・・私たちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました」。
・牧会者の喜びは、相手の救いである。自分の救いよりも、相手の救いを喜ぶ。
−?テサロニケ3:8-10「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、私たちは生きていると言えるからです。私たちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。・・・顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」。
・パウロは自分を迫害するユダヤ人のために祈る。彼らの救いのためには自分が滅んでも良いと。
−ローマ9:2-3「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」。
・何故他者の救いを喜べるのか。それはキリストが私の為に死んでくれたからだ。
−?ヨハネ3:16-17「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう」。