1.信仰・希望・愛に生きる教会
・パウロはピリピ伝道の後、テサロニケに向かい、そこに信徒の群を形成した(使徒行伝17章)。その後、アテネ・コリントに伝道するが、迫害の中にあるテサロニケ教会を思い、励ましの手紙を書いた。
−?テサ1:1「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように」。
・テサロニケの信徒は、ユダヤ教や異教からの改宗者であり、同胞から村八分され、迫害されていた。
−?テサ2:14「兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです」。
・その中で信仰を守る人々を覚えて、パウロはコリントの地から祈りを送る。
−?テサ1:2「私たちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」。
・祈りの中で、パウロはテサロニケの人々が、信仰・希望・愛に生きている事を喜ぶ。
−?テサ1:3「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、私たちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」。
・信仰は必ず行為を生む。その行為は他者に向けられた愛として出てくる。
−?ヨハ4:20「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」。
・ここに言う愛はアガペだ。それは価値なきものを愛し、無の中に価値を生み出していく愛だ。それは価値あるものを自己の為に愛するエロスの愛とは根本的に異なる。エロスは相手から奪い、アガペは相手に与える。
−?コリ13:4-7「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。
・テサロニケの人々は、パウロの言葉を受け入れて、困難をいとわず改宗した。パウロはその事を神に感謝する。
−?テサ1:5-7「私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。私たちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、私たちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです」。
2.祈りの中にある教会
・パウロはテサロニケを離れてからも、毎日テサロニケの人々の事を思って祈っていた。教会は多くの人の祈りに支えられて存在する。
−?テサ5:16-18「 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。
・祈りの基本は神との対話だ。神は私たちの求めを待っておられる。そして必ず、耳を傾けられる。だから、どんなことでも神に打ち明けよとパウロは勧める。
−ピリピ4:6「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。
・神との対話の中で、現実の苦難の意味が変わってくる。祈りは人を変えていく。
−ヨブ 42:5-6「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」。
・自分を捨てた時、他者が見えてくる。他者は同じ神の子、兄弟だからだ。
−コロサイ1:3「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています」。
・私たちは他の人の祈りに支えられている。「神共にいます」とは、生活の中では「私たちのために祈る兄弟が共にいます」という事実として現れる。自分のために祈る人の存在こそ、私たちの生きる力だ。
−?コリ1:11「あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰で私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が私たちのために感謝をささげてくれるようになるのです」。