1.世の価値観を教会に持ち込む人々への戒め
・ヤコブの時代、集会で富める者は丁重に扱われ、貧しい人は軽視されるという現実があった。現在でも、教会の役員は社会的地位のある人がなりやすい。私たちは世の価値観をそのまま教会内に持ち込んでいる。
―ヤコブ2:1-4「私の兄弟たち、栄光に満ちた、私たちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、私の足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」。
・ヤコブは言う「貧しい人をこそ神は愛されるのではないか。それなのに何故あなたたちはその人々を排斥するのか」。
―ヤコブ2:5-6「私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた」。
・富んでいる人々は財産をキリストのために捨てなかった故に富んでいるのだ。それがわからないのかとヤコブは言う。
―ヤコブ2:6-7「富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか」。
・「神の前に富める」者になろうとすれば、この世では死ななければいけない。そのことをわきまえなさい。
―ヤコブ5:1-4「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました」。
・人を分け隔てするな、隣人を自分のように愛せ。キリストはこの貧しい人のためにも死なれたのだ。
―ヤコブ2:8-9「もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます」。
・私たちは死んで神の審判の前に立たなければいけないことを忘れるな。神がこのような分け隔てを喜ばれると思うか。
―ヤコブ2:12-13「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」。
2.行いのない信仰と信仰のない行い
・貧しい人に支援を求められ、「温まりなさい」、「十分食べなさい」と言うだけで何もしない時、それが信仰の行為といえるだろうか。口で言うだけでなく、行いなさい。トルストイが何故靴屋のマルチンを書いたかを思い起こしなさい。
―ヤコブ2:14-17「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。
・人は言うかもしれない「業は人を救わない。救いは信仰のみにある」。ヤコブは答える「よろしい、あなたの信仰を見せてみなさい」。相手は見せられない、見えないからだ。見えない信仰を見えるものにするのが行為なのだ。
―ヤコブ2:18-20「行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、私は行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか」。
・パウロは「信仰のみ」と言った。ある人々はパウロを誤解し、行為は不要だとした。しかし、パウロは「霊の実を結
べ」と言った。ヤコブの言葉はパウロと同じなのだ。行いのない信仰、信仰のない行い、共に意味がないのだ。
―ガラテヤ5:19-24「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。・・・これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」。
*靴屋のマルチン
靴屋のマルチンは妻や子供に先立たれ、そんな辛い出来事の中で生きる希望も失いかけてしまいます。周りの人との関わりもだんだん疎ましく感じられ、ただ惰性で続ける仕事に支えられて毎日を送っています。
ある日、教会の神父さんが傷んだ革の聖書を修理してほしいと、聖書をおいていきます。マルチンは今までの辛い経験から神への不満をもっていましたが、それでも、神父さんが置いていった聖書をちらちらと読みはじめます。
そんなある日の夜、夢の中に現れたキリストがマルチンにこう言います。 「マルチン、明日、おまえのところに行くから、窓の外をよく見てご覧。」 次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子に気をとめます。外には寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはそのおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。 それから、今度は赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまります。マルチンは出て行って、その親子を家に迎え、ショールをあげました。 まだかまだかと、キリストがおいでになるのを待っていると、おばあさんの籠から一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなしをして、いっしょに謝りました。 そうして、一日が終りましたが、とうとうマルチンが期待していたキリストは現れませんでした。「やっぱり、あれは夢だったのか」とがっかりしているマルチンに、キリストが現れて言いました。
「マルチン、今日お前のところに言ったのがわかったか」 そう言い終わると、キリストの姿は雪かきの老人や貧しい親子やリンゴを盗んだ少年の姿に次々と変わりました。
さて、この話の題材は言うまでもなく、マタイによる福音書25章40節に出てくるイエス.キリストおっしゃった言葉です。 「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」