1.使徒としてのパウロ
・コリント教会にはパウロの使徒性を疑う者もいた。通常、使徒とは生前のイエスに従った十二使徒を指したからだ。しかし、パウロはキリストに直接召された者は使徒なのだと反論する。
−?コリ9:1-2「私は自由な者ではないか。使徒ではないか。私たちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のために私が働いて得た成果ではないか。他の人たちにとって私は使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、私が使徒であることの生きた証拠だからです」。
・パウロは異邦人伝道のためにキリスト選ばれ、召された。ダマスコ途上での復活のキリストとの出会いは、彼の紛れもない使徒性の証しなのだと彼は語る。
−ガラテア1:13-16「私は、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。・・・しかし、私を母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされました」
・使徒性のもう一つの証しはキリストの伝えられていない所に、キリストを伝えることだ。パウロはコリントに福音を伝え、コリントに教会を立てた。パウロは「私の推薦状はあなたがた自身の信仰だ」とまで言う。
−?コリ3:2-3「私たちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。
・使徒あるいは福音の宣教者は、生活のためのお金を宣教によって得ることが許されている。主イエスは福音を宣べ伝える者は、それによって生活の資を得ても良いといわれた。しかし、私はこの権利を放棄した。
−?コリ9:13-15「神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。しかし、私はこの権利を何一つ利用したことはありません」。
・パウロは自給伝道者として働いた。そうせずにはおられなかったからだ。
−?コリ9:16-17「私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです」。
2.ただ福音のために
・私の目的は一人でも多くの者をキリストのために獲得することだ。福音のためならなんでもすると彼は言う。
−?コリ9:19-23「私は、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、私自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、私は神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、私はどんなことでもします。それは、私が福音に共にあずかる者となるためです」。
・その目的のために、私は、競技者が節制するように節制に努める。
−?コリ9:25-26「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私たちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、私としては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」。
・羊飼いは羊のために命を捨てる。福音の宣教者が自己を養うことを考え始めたら、彼はその資格を失う。
−エゼキエル34:2-6「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。・・・ 彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。私の群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、私の群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない」。