1.イエスの話をめぐる対立
・イエスは言われた「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。あなた方指導者が羊=民のことを気にかけないとしたら、あなた方は神の民を預かるべき羊飼いではない」。
−ヨハネ10:11-13「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」
・このイエスの話は、聞いている者たちの間に対立をもたらした。大多数の者は怒ったが、イエスの言葉の真実性にうたれる少数の人々もいた。
−ヨハネ10:19-21「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。『彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか』。ほかの者たちは言った。『悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか』」
・福音は聞いて受入れる者と受入れない者との間に必ず対立をもたらす。しかし、必ず信じる者は起こされ、この少数者を土台に教会は立てられる。私たちはそれを信じて、伝道を続ければ良い。
−ローマ11:3-5「『主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、私だけが残りましたが、彼らは私の命をねらっています』。しかし、神は彼に何と告げているか。『私は、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた』と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。」
2.ユダヤ人の拒絶と受け入れ
・羊飼い論争が為されたのは10月の仮庵の祭りの時だった。其れから2ヵ月後の神殿奉献記念祭(12月)にイエスがエルサレムに上られた時、ユダヤ人は再び論争を仕掛けてきた。
−ヨハネ10:22-24「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。『いつまで、私たちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい』」。
・これはイエスを捕らえる材料を得るための論争であった。イエスは「私の行っている業こそ私が神から遣わされた者であることを証しているのに、あなた方は信じない」としてユダヤ人たちを批判された。
−ヨハネ10:25-27「私は言ったが、あなたたちは信じない。私が父の名によって行う業が、私について証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。私の羊ではないからである。私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。」
・更にイエスは神を父と呼ばれた。これはユダヤ人には我慢の出来ない冒涜行為だった。
−ヨハネ10:28-31「『私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らを私の手から奪うことはできない。私の父が私にくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。私と父とは一つである』。ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。」
・イエスは続けて言われた「私が神の業を行っていないなら信じなくとも良い。しかし、神の業が為されているのに、何故それを認めようとしないのか」と。
−ヨハネ10:37-38「私が父の業を行っていないのであれば、私を信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、私を信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父が私の内におられ、私が父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」
・ユダヤ人たちは受入れない。イエスはエルサレムを去って、ヨルダン川の向こう岸に逃れられた。
−ヨハネ10:39-40「ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。」
・イエスの宣教はガリラヤでも、エルサレムでも受入れられなかった。しかし、荒野において、人々はイエスのもとに来て、話を聞き、イエスを信じた。
−ヨハネ10:41-42「多くの人がイエスのもとに来て言った。『ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった』。そこでは、多くの人がイエスを信じた。」