江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年3月31日  ヨハネ11:1-27  この病は死に至らず

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1.ラザロの死

・イエスが親しくしておられたベタニア村のラザロが重い病気になった。マルタとマリアの姉妹はイエスに使いを送り、「来て、いやしてください」とお願いした。
−ヨハネ 11:1-3「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。」
・イエスは当時、ヨルダン川の向こう岸におられ、多くの人がイエスの元に来て、すぐには動けなかった。
−ヨハネ10:40-41「イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。『ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。』」
・イエスは言われた「私はすぐにはいけないが、この病は死にいたるものではない」。
−ヨハネ11:4-6「イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。」
・ラザロの病は重く、ラザロはまもなく死んだ。イエスがベタニアにつかれた時、ラザロは死んで4日目だった。
−ヨハネ11:17「イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」
・ラザロの病は死に至る病だったのではないか。マルタはイエスが早く来てくれれば弟は死ななかったのにと恨みを言う。
−ヨハネ11:21「マルタはイエスに言った。『主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』」
・私たちの祈りも聞かれないときがある。どうしようもない状況で、どのようにして、神の業が為されるのか。私たちも常にそれを疑う。モーセでさえ、荒野で肉を与えると言われた神の言葉を疑った。
−民数記 11:21-23「モーセは言った。『私の率いる民は男だけで六十万人います。それなのに、あなたは、肉を彼らに与え、一か月の間食べさせようと言われます。しかし、彼らのために羊や牛の群れを屠れば、足りるのでしょうか。海の魚を全部集めれば、足りるのでしょうか』。主はモーセに言われた。『主の手が短いというのか。私の言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。』」

2.神の栄光が現れるために

・人は病気や災いに会うと、それを罪のためだと思う(呪いとしての災い)。しかし、聖書は言う「それは神の栄光が現れるためだ」と。
−ヨハネ9:1-3「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』。イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』。」
・ラザロは死んだ。祈りは聞かれなかった。聞かれずに、どうして神の業を信じうるか。イエスは言われた「あなたの兄弟は復活する」。しかし、マルタには信じられない。
−ヨハネ11:23-24「イエスが、『あなたの兄弟は復活する』と言われると、マルタは、『終わりの日の復活の時に復活することは存じております』と言った。」
・イエスは繰り返し言われる。この病は死に至るものではないと。
−ヨハネ11:25-26「イエスは言われた。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」
・病気になると、熱や痛みが出る。それは病原菌が引き起こすが、他方では、生きているからこそ生じるものだ。生命が病原菌と戦うからこそ熱や痛みが出る。それは生きている証しなのだ。人間の破綻を通して神の救いは現れる。「このことを信じるか」。
−ヨブ 36:15「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。」

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