1.異邦人の罪とユダヤ人の罪
・パウロは最初に異邦人の罪を指摘した。異邦人は神を知りうるのにこれを知ろうともしなかった。
−ローマ1:20「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」
・ユダヤ人は神を知っており、神を知らない異邦人を罪人と裁きながら、行っているのは異邦人と同じである。
−ローマ2:1-2「人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」。
・ユダヤ人たちは「自分達は神の特別な恵みの中にいるのだから、神はいつも私たちを赦して下さる」と考えた。しかし、神は罪を罪として放置される方ではない。悔い改めない者には赦しはない事を知るべきだ。
−ローマ2:3-5「このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」。
・律法を知らないで罪を犯した異邦人は罪の故に滅ぼされ、律法を知りながら罪を犯したユダヤ人もまた、その罪の行為によって裁かれるのだ。
−ローマ2:12-13「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」。
・神に書かれた律法に意味があるのではなく、心に書かれた律法こそ、その律法を行う心こそ、意味があるのだ。
−ローマ2:14-15「律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」
2.ユダヤ人の罪とクリスチャンの罪
・あなたがたユダヤ人は、神の律法を持ちながら、それを行わないのだから、異邦人より罪が重い。
−ローマ2:17-23「あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。・・・それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」。
・「主の名はあなた方によって汚されている」とまでパウロは言う。クリスチャンが「自分達は救われたのだから、何をしても良い」と考えた時、私たちも主の名を汚している。選びとは特権ではなく、使命なのだ。
−アモス3:2「地上の全部族の中から私が選んだのは、お前たちだけだ。それゆえ、私はお前たちを、すべての罪のゆえに罰する」。
・割礼も律法を守るからこそ意味があり、守らなければ無割礼と同じだ。バプテスマも同じだ。
−ローマ2:25-27「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから」。
・外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、外見上のクリスチャンがクリスチャンなのではない。心に割礼を受けた者こそユダヤ人であり、新しく生まれ変わった者こそクリスチャンなのだ。
−ローマ2:28-29「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」。
・割礼は神の義を求めて生きない者にとっては体の傷に過ぎない。バプテスマも同じだ。
−ピリピ3:2-3「よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、私たちこそ真の割礼を受けた者です。私たちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」。