1.自分の義を追い求めてつまずいたイスラエル
・ユダヤ人は行いによる義を追い求めることによって、神の義から自分の義へそれていってしまった。
−ローマ10:2-3「私は彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」
・人が行いを追い求める時、信仰は自己主張になる。他の誰よりも熱心に祈り、戒めを守ったのだから、救われて当然だと考え、そのように行わない人を裁くようになる。それは自分の義であって、神の義ではない。
−ルカ18:10-12「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って・・・祈った『神様、私は他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』。ところが、徴税人は・・・胸を打ちながら言った『神様、罪人のわたしを憐れんでください』。・・・義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。
・私たちが自分の力で救われるため、天に昇ろうし、あるいは地の底まで降りようと努める時、私たちは傲慢になって救いからもれる。救いはただ、陰府に下られ、天に昇られたキリストを信じることから来る。
−ローマ10:9-10「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」。
・イスラエルも福音を聞いたのに、これを拒絶した。自分の正しさに固執したからだ。
−ローマ9:31-32「イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。・・・イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです」。
2.福音の伝道
・主の名を呼び求める者は誰でも救われる。では、その救いはどのようにして為されるのか。宣教する者の言葉を聞くことによってである。
−ローマ10:13-15「主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことかと書いてあるとおりです」。
・信仰を与えられた者が召され、遣わされ、宣べ伝えることを通して、人は聞き、信じ、呼び求める。私たちは福音と言う宝物を預かっている。たとい、私たちが土の器であっても、私たちは神の言葉を語ることが出来る。
−?コリント4:5-7「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。私たち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。・・・私たちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、私たちから出たものでないことが、あらわれるためである」。
・神は無関心な者にも、その姿を、キリストを通して示された。異邦人の救いがそうだ。
−ローマ10:20「イザヤも大胆に『私は、私を探さなかった者たちに見いだされ、私を尋ねなかった者たちに自分を現した』と言っています」。
・そして、そむくイスラエルにも救いの手を差し伸べておられる。
−ローマ10:21「イスラエルについては『私は、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた』と言っています」。
・人間の愛は、背いた者は捨てる。しかし、神は背いた者たちのために、御自身を罰せられた。私たちは背いたのに赦された。この十字架の愛に出会った者は、もう前の生活に戻れない。
−?ヨハネ3:16「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」。
・私たちは、以前の生活は捨てた。打たれても復讐しない。神が裁いてくださるから。私たちは打った相手のために祈る。その時、罪人が変えられる奇跡を私たちは見るだろう。
−ローマ12:19-20「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。・・・あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
・私たちは救われた。次は私たち行為を通して次の人が救われる。信仰の応答としての行為は神の義をもたらす。
−ルカ6:35-36「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。・・・あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」