1.イエスを受け容れることが出来ない人々
・イエスは群集に対して「私こそ命のパンであり、私に来るものは飢えることも渇くこともない」と言われた。
−ヨハネ6:35「イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」
・人々はつぶやき始めた「この人はヨセフの子であり、大工ではないか。何故こんなに偉そうに言うのか」と。
−ヨハネ6:41-42「ユダヤ人たちは、イエスが『私は天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、私は天から降って来たなどと言うのか。』」
・イエスは彼らに答えられた「私こそ天から下ったパンだ。それを信じる時、あなた方に生命が与えられるのだ」。
−ヨハネ6:48-51「私は命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」
・生命とは何だろう。体が生きていることが生命なのか。植物状態になった人は生きているのだろうか。生命を知るためにはまず、私たちの中に命の支配権がないことを認めなければならない。
−マタイ6:27「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」
・人が自分の命を支配できないのであれば、それを支配されている方を求めるべきだ。
−マタイ6:25-26「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
2.キリストを主食として食べる
・人々は「私を食べよ」とのイエスの言葉に躓いた。肉の生命しか考えることが出来なかったからだ。
−ヨハネ6:52「ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた。」
・イエスが言われたのは、生命の源である神がイエスを遣わされたのだから、イエスを通して生命を見出せと言うことだった。
−ヨハネ6:53-57「イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる。生きておられる父が私をお遣わしになり、また私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。」
・人は全人格を持ってイエスに従う時、そこに平安を見出す。しかし、自分の一部しか捧げないものには生命は与えられない。
−マタイ19:21-22「イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」
・十字架で肉を裂き、血を流されたかたこそ救い主だと受け容れることは人間の理性では出来ない。多くの人がイエスに躓いて去っていった。
−ヨハネ6:60-66「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」・・・このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」
・イエスはローマにより十字架につけられた。しかし、キリストに勝利したローマはやがて滅び、ローマに負けたかに見えたキリストは今日も多くの人の心に生きる。これは何故か。
−?コリ1:23-25「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、・・・召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」