1.地上にて
・イエスに連れられて山に登った三人の弟子たちは、不思議な信仰体験をした。
―マタイ17:1-2「イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。」
・他方、地上では残りの弟子たちが不信仰の混乱と困惑の中にあった。私たちも主の日に教会で礼拝を行い、神の言葉を聞くが、それが残りの六日に結びつきにくい。
―マタイ17:14-16「彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、『主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした』」。
・弟子たちは病をいやし悪霊を追い出す権能を与えられていたが、てんかんの子をいやせなかった。
―マタイ10:5-8「イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、・・・病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。」
・イエスは弟子たちの不信仰を嘆かれた。
―マタイ17:17「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、私はあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、私のところに連れてきなさい」。
・イエスが子をいやされた後、弟子たちは、自分たちは何故いやすことが出来なかったのかとイエスに訊ねた。
―マタイ17:19-20「弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った『私たちは、どうして霊を追い出せなかったのですか』。するとイエスは言われた『あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう』」。
2.いやしと信仰
・イエスは「からし種一粒の信仰があれば出来ないことはない」と言われた。からし種一粒とは「最も小さい」の例えである。弟子たちは信仰が足りないからいやせなかったのか、あるいはまた病がいやされることが救いなのだろうか。そう考える人もいるが、聖書は明らかに違うと言っている。
―マタイ16:4「『邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう』。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。」
・腎不全の人は週2回の人工透析を受けないと死ぬ。彼等は腎臓の健康な人をうらやましいと思うであろうが、腎臓の健康な人は、それだけで幸せにはなれない。これは、救いは魂の問題であり、体の問題ではないことを示す。
―マタイ10:28「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」
・神に出来ないことはない。しかし、それは私たちが自分の思いを捨てて神の思いに同化する時に示される。それが「御心を求める祈り」だ。ゲッセマネのイエスの祈りがその典型だ。
―マタイ26:39「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
・弟子たちはいやせなかった。いやせない事を通して、自分たちが無力であることを知り、低くされていく。いやされる方は人間ではなく神であることを知るために、いやしが与えられなかったのではないか。
―マタイ17:21「〔しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。
・私たちが出来ることは、自分が不信仰であることを知り、それでも神を求めていくことしかないのではないか。信じきることの出来ない不信仰者の信仰こそ、私たちの信仰ではないだろうか。
―マルコ9:23-24「イエスは彼に言われた『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる』。その子の父親はすぐ叫んで言った『信じます。不信仰なわたしを、お助けください』」。
・教会は宣教の推進のために病院や学校を作って来た。これは正しいことだったのだろうか。教会の業とは、一筋に福音を宣教することではないのか。
―マタイ28:19「あなたがたは行って、全ての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施しなさい」