1.ベテスダのいやしの後で
・イエスはベテスダの池で、38年間病気に苦しんだ人をいやされた。しかし、その日が安息日であったので、パリサイ人は、イエスは安息日の規定を破ったと非難した。
―ヨハネ5:9-10「その人は・・・床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』」
・イエスはそのようなユダヤ人に語られた「父は安息日も働いておられる。だから私も働くのだ」。
―ヨハネ5:17「イエスはお答えになった。『私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。』」
・安息日を破るばかりか、自分を神の子とするイエスは、ユダヤ人には、神を冒涜する者であって許せなかった。
―ヨハネ5:18「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」
・そのようなユダヤ人に対してイエスは、ご自分の証をされた。子は父の御心を行っているのだ。
―ヨハネ5:19-20「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。」
・何が正しいかは、私たちが父の御心を行っているかどうかで判別される。安息日に病の人を放置するのと、その病をいやすことのどちらを父は望んでおられるとあなた方は思うのか。
―ヨハネ5:30「私は自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。私の裁きは正しい。私は自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
2.イエスについての証し
・イエスは続けて言われる。私を遣わされた方が父であることは、私が父の業を行っている事から示される。38年間も病に苦しむ人をいやすことは父しか出来ないことだ。それなのに、あなた方は信じない。
―ヨハネ5:36「私にはヨハネの証しにまさる証しがある。父が私に成し遂げるようにお与えになった業、つまり、私が行っている業そのものが、父が私をお遣わしになったことを証ししている。」
・神の業を見てもあなた方は信じない。あなた方が求めるのは、人の賞賛と誉れだからだ。あなたがたは人が自分を何と思うか、何と言うかを気にするが、自分は神の前に正しいか、神は何を望んでおられるかを気にかけない。
―ヨハネ5:43-44「私は父の名によって来たのに、あなたたちは私を受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」
・あなた達が求めるのは、自分自身の利益だ。しかし、人間の欲望が満たされても、それは一時的であり、永続しない。そこには平安はない。あなた方は死んでいるのだ。
―エペソ2:1-3「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。私たちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」
・生命を与えるものは神であり、神が私を遣わされた。だから私を信じるものは生きるのである。
―ヨハネ5:24「はっきり言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」
・私たちは人を裁く(非難する)。それは裁きの権が自分にあると思うからだ。裁き主は神であることを知る者は人を裁かない。人を裁かないことによって、私たちは既に永遠の命を与えられていることを知る。
―?ヨハネ4:20-21「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。」
・人間の欲望に訴え、物質的な利益や幸福を約束する宗教はこの世では栄える。教会もいやしや慰めだけを約束した時、栄えるだろう。しかし、それは偶像礼拝であってイエスの教えられるものではない。
―ヨハネ12:24-25「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」