1.らい病人のいやし(1-4節)
・イエスが山を下りられると、一人のらい病人がイエスの所にきた。当時、らい病人は汚れたものとして隔離されていたので、らい病人が町に出て、イエスの前にでることは命がけの行為であった。
―レビ記13:45-46「患部のあるらい病人は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。その患部が身にある日の間は汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。すなわち、そのすまいは宿営の外でなければならない。」
・らい病人は「御心ならば」と叫ぶ。自分がいやしに価しないことを知る謙遜を持っている。イエスはその信仰に感動され、さわっていやされた。これはらい病が伝染病として恐れられていた当時、大胆な行為であった。
―マタイ8:2-3「ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、『主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが』。イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『そうしてあげよう、きよくなれ』と言われた。すると、らい病は直ちにきよめられた。」
・病そのものは罰でも呪いでもないが、人はそれを汚れとして受け取る(近代の結核、現代のエイズ、精神の病等)。イエスは病む人をあわれまれた。
―ヨハネ9:1-3「イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』。イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみ業が、彼の上に現れるためである。』」
2.百卒長の僕のいやし(5-13節)
・ローマの軍人である百卒長が自分の年老いた僕のために、イエスの前に跪いた。
―マタイ8:5-6「イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、『主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています』」
・しかも彼は自分がイエスのあわれみを受けるに価しないものであることを告白して願う。
―マタイ8:8「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。」
・イエスはご自分の使命が約束の民にあると考えておられたが、ユダヤ人にもない異邦人の信仰に感動された。
―マタイ8:10-12「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。
3.いやしとあわれみ(14-17節)
・マタイはイエスの行われたいやしは、旧約の預言(イザヤ53.4)の成就と告白する。
―マタイ8:16-17「イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった。これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。」
・ユダヤ人は救いは律法を守ることにあると考えた。故に律法を守らない罪人、律法を知らない異邦人は汚れたものであり、排除した。イエスは律法は人のためにあるとして、ユダヤ人が排斥した人々を受け入れた。
―ルカ15:1-2「取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。」
・この受容の中でいやしの奇跡が為されている。奇跡が重要ではなく、いやしを通して神のあわれみが示されることが重要である。
―らい病人は「御心ならば」と言って、イエスのあわれみを求めた。
―百卒長は「自分にはその資格がない」ことを認めながら、あわれみを求めた。
・いやしそのものを求める時、人間は傲慢になる。いやされることよりも御心を求めることが信仰である。
―詩篇34:19-20「正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。」
・いやしとは人間回復の行為である。今日の教会がこの人間回復の場になっているかが問われている。
―ルカ4:16-21「安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、『主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである』。イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、『この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した』と説きはじめられた。」