江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年7月25日祈祷会(申命記31章、約束の地に入る民への警告)

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1.後継者ヨシュアの任命

 

・モーセは生涯の終わりが近づいている事を知らされ、民に最後の言葉を述べる。

-申命記31:2-3「私は今日、既に百二十歳であり、もはや自分の務めを果たすことはできない。主は私に対して、『あなたはこのヨルダン川を渡ることができない』と言われた。あなたの神、主御自身があなたに先立って渡り、あなたの前からこれらの国々を滅ぼして、それを得させてくださる」。

・主が先立たれて戦われるゆえ、「怖れるな、強く雄々しくあれ」と命じられる。

-申命記31:5-6「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」

・後継者にヨシュアが任命され、「共にいる」と約束される。「インマヌエル=主共にいます」が新旧約を貫く福音の核だ。神が共にいますから、どのような状況下でも怖れるものはない。強く雄々しくあることが出来る。

-申命記31:14-23「主はモーセに言われた『あなたの死ぬ日は近づいた。ヨシュアを呼び寄せ、共に臨在の幕屋の中に立ちなさい。私は彼に任務を授ける』。モーセがヨシュアと共に臨在の幕屋の中に立つと、主は雲の柱のうちに幕屋に現れられた。雲の柱は幕屋の入り口にとどまった・・・主はヌンの子ヨシュアに命じて言われた『強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、私が彼らに誓った土地にイスラエルの人々を導き入れる者である。私はいつもあなたと共にいる』」。

・この約束はモーセの死後、ヨシュアに繰り返される。私たちもこの約束をヨシュアと共に聴く。

-ヨシュア記1:1-9「私の僕モーセは死んだ・・・強く、雄々しくあれ・・この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する・・・うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」。

 

2.荒野から沃地へ

 

・民はこれから約束の地に入る。そこは豊かな土地、乳と蜜の流れる地、そこに行けば民は主を離れ、他の神々を拝み始めるだろう。私はそれを知りながら彼らの先祖と約束した約束を果たすと主は言われる。

-申命記31:16-21「あなたは間もなく先祖と共に眠る。するとこの民は直ちに、入って行く土地で、その中の外国の神々を求めて姦淫を行い、私を捨てて、私が民と結んだ契約を破るであろう・・・私がその先祖に誓った乳と蜜の流れる土地に彼を導き入れるとき、彼は食べて満ち足り、肥え太り、他の神々に向かい、これに仕え、私を侮って私の契約を破るであろう・・・私は、私が誓った土地へ彼らを導き入れる前から、既に彼らが今日、思い図っていることを知っていたのである。」

・豊かになり、満ち足りる時、民は主を忘れ、自分の神=偶像の神を求める。砂漠においては主なしでは生きていけないが、沃地にいれば自分だけで生きていけるようになる。民は言い始める「主とは誰か、私が主だ」。

-申命記6:10-12「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい」。

・罪とは、神を忘れて、高ぶることだ。自分の力で生きている、神などいらない。人間が高ぶり始めると、神はその御顔を隠される。御顔を隠される=共にいなくなると災いが来る。太陽が隠れると、凶作になるように、である。神は民を愛される故に、顔を隠される。何故ならば、人は災いを知ることなしに神を求めないからだ。

-申命記31:17-18「その日、この民に対して私の怒りは燃え、私は彼らを捨て、私の顔を隠す。民は焼き尽くされることになり、多くの災いと苦難に襲われる。その日民は、『これらの災いに襲われるのは、私の内に神がおられないからではないか』と言う。私はそれでも、その日、必ず私の顔を隠す。彼らが他の神々に向かうことにより行ったすべての悪のゆえである」。

・エレミヤは、度重なる預言にもかかわらず、民が悔い改めず、滅びの道をたどるのを、悲しみの内に見続けた。しかし、彼は最後には捕囚と国の滅亡を喜ぶ。民は底の底まで落ちる事を通して主を求め始めるからだ。

-エレミヤ29:10-11「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」。

 

3.祝福は苦難を通して与えられる

 

・詩篇113編は、天上に君臨する高き神である方が、地上に目を注ぎ、苦難にあえぐものに手を差し伸べる方であるとの信仰を歌う。

-詩編113:7-9「弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ、自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返してくださる。子のない女を家に返し、子を持つ母の喜びを与えてくださる」。

・苦難を通して人は神を求め、神の応答を通して歴史が形成される。イスラエルはバビロニアに国を滅ばされることを通して、自分たちが何故砕かれたのかを求め、その求めの中で旧約聖書が編集され、聖書によって生かされる民に変えられていく。イスラエルは国家としては前587年に滅んでいる。しかし、捕囚の苦しみの中で彼らは自分たちの存在の意味を探り、自分たちが神により選ばれ、特別な使命を与えられたとの自覚を持つようになる。その自覚の元に編集されたのが創世記であり、出エジプト記であった。旧約聖書の中心である律法の書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)はこの捕囚時代にバビロンでまとめられた。国を無くし、国民共同体としては滅んだイスラエルが、今信仰共同体として、聖書の民となった。

・イスラエルを滅ぼしたバビロニアも、そのバビロニアを制圧したペルシャも今はいない。更にペルシャを滅ぼしたギリシア帝国もローマ帝国も滅んで消えた。しかし、イスラエルの民は2500年の歴史を生き抜き、同じ民族として現在も生きている。彼等を生かし続けたものは苦しみの中で生み出された聖書である。私たちも人生において多くの苦難に出会い、その苦難はある時には限界を超えているように思われ、絶望した人たちは自殺していく。しかし、苦難には意味があり、苦難を通して神が語られていることを知る者は、その苦難が時の経過と共に祝福に変えられていく。どのような時も自ら死を選んではいけない。

・「病者の祈り」も苦難の中から生まれた。挫折した者に目をかけられる神を求める歌である。

-病者の祈り「私は神に求めた、成功をつかむために強さを。私は弱くされた、謙虚に従うことを学ぶために。私は求めた、偉大なことができるように健康を。私は病気を与えられた、よりよきことをするために。私は求めた、幸福になるために富を。私は貧困を与えられた、知恵を得るために。私は求めた、世の賞賛を得るために力を。私は無力を与えられた、神が必要であることを知るために。私は求めた、人生を楽しむために全てのものを。私は命を与えられた、全てのものに楽しむために。求めたものはひとつも得られなかったが、願いはすべてかなえられた。神に背く私であるのに、言い表せない祈りが答えられた。私はだれよりも最も豊かに祝福されている」。

・預言者イザヤは歌う「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2:4)。現実の政治に絶望する故に、イザヤは問題の解決を神に求めた。このイザヤ書の言葉は、NYの国連ビルの土台石に刻み込まれている。第二次大戦の惨禍を経験した諸国は、「もう戦争はしない」と願い、イザヤの預言を刻んだ。

・しかし言葉を刻んだだけでは平和は来ない。平和は人間が自分の限界、無力を知った時に来る。日本は1945年に戦争に負けた。もう兵器はいらなくなり、砲弾にするために兵器工場に集められた鉄が鋳られ、釜や鍬が作られた。戦争に負けたからこそ、日本人はイザヤの預言を実現できた。他方、戦勝国となったアメリカは戦争を繰り返している。両国の違いは1945年にあるのではないかと思える。日本は1945年に戦争に敗北し、アメリカは勝った。勝った国においては戦争をやめることが出来ず、負けた国は戦争をやめた。このことは何かを示唆するように思える。

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