1.解放の時としての安息
・申命記15章は7年目ごとの安息年に負債を免除せよと命じる。
-申命記15:1-2「七年目ごとに負債を免除しなさい・・・だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。主が負債の免除の布告をされたからである」。
・安息年の規定は元々7年目ごとに土地を休ませる制度であった。それは地力を回復させるためと、収穫しないことによって貧しい者に食物を与えることの双方の意味があった。隣人への配慮がここにある。
-出エジプト記23:10-11「あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない」。
・七日目ごとの安息日規定も、奴隷や寄留者が休めるようにとの規定である。それは隣人のための規定である。
-出エジプト記23:12「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。
・安息規定の根底には隣人に対する関心がある。あなたはエジプトの地で奴隷であり、休むことが出来なかった。主があなたを救われて休日を与えられたから、「あなたも隣人を休ませよ」と命じられている。
-申命記15:15「エジプトの国で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が救い出されたことを思い起こしなさい。それゆえ、私は今日、このことを命じるのである」。
・7年目ごとの奴隷解放も同じである。経済的に行き詰って身を売らざるを得なかった奴隷を憐れみ、彼にやり直しの機会を与えよと言われている。
-申命記15:12-14「同胞のヘブライ人の男あるいは女が、あなたのところに売られて来て、六年間奴隷として仕えたならば、七年目には自由の身としてあなたのもとを去らせねばならない。自由の身としてあなたのもとを去らせる時は、何も持たずに去らせてはならない。あなたの羊の群れと麦打ち場と酒ぶねから惜しみなく贈り物を与えなさい。それはあなたの神、主が祝福されたものだから、彼に与えなさい」。
・どのような社会になっても貧しい人はいる。あなたは「彼らに手を開け、手を閉じてはいけない」と命じられる。
-申命記15:11「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、私はあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」。
2.この規定の意味するもの
・戒めが与えられても人はそれを守らない。自分の損になることはしないからだ。
-申命記15:8-9「彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう」。
・7年目ごとの負債の免除は実際に制度化された。しかし、誰も守らなかった。
-エレミヤ34:13-16「私は、奴隷の家エジプトの国からあなたたちの先祖を導き出した日に、彼らと契約を結んで命じた。だれでも、同胞であるヘブライ人が身を売って六年間、あなたのために働いたなら、七年目には自由の身として、あなたのもとから去らせなければならないと。ところが、お前たちの先祖は私に聞き従わず、耳を傾けようとしなかった。しかし今日、お前たちは心を入れ替えて、私の正しいと思うことを行った。お前たちは皆、隣人に解放を宣言し、私の名で呼ばれる神殿において、私の前に契約を結んだ。ところがお前たちは、またもや、態度を変えて私の名を汚した。彼らの望みどおり自由の身として去らせた男女の奴隷を再び強制して奴隷の身分としている」。
・人は自分に損になる行為はしない。故にイエスの十字架が必要だった。神は自分の子を犠牲として殺すことを通して、損得を超える隣人への憐れみを示された。
-ルカ4:16-19「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった・・・『主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである』。
・人は一度死ななければ悔い改めない。「Amazing grace」の作詞者ジョン・ニュートンは、父が地中海航路の船長だったために11歳から船に乗るようになり、やがて黒人奴隷を運ぶ船長となった。1748年、船がアフリカからアメリカに向かっていた時、船は大嵐に遭遇した。もう助からないと覚悟する程の命の危険にさらされた時、ジョンは初めて『神様、助けてください』と叫んだ。嵐がおさまった後、ジョンは母が残してくれた形見の聖書を取り出して読み始めた。神は、恐ろしい罪にまみれているジョンの姿を、はっきりと示された。奴隷商人として生きてきたこれまでの人生を彼は悔いた。「神様、こんな私でも救われますか」と彼は思わずひざまずいていた。「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」、
その声を聞いて、ジョンはイエス・キリストを自分の救い主と信じ、まったく新しい人に変えられた。だから彼は書く「Amazing grace! How sweet the sound. That saved a wretch like me. Once was lost, but now am found. Was blind, but now I see.」
・イエスに従うものとして、私たちも貧しい人に手を閉じてはいけない、それは信仰の基本だ。
-第一ヨハ3:17-18「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内に留まるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」。
3.申命記15章の黙想(神の前に豊かになる)
・イエスはルカ12章で愚かな金持ちの譬えを語られる。
-ルカ12:20-21「しかし神は『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」
・「愚かな金持ちの譬え」は次のように展開する「ある人の畑が豊作で、有り余るほどの穀物が収穫され、それを倉にしまい込む。そして金持ちは自分に言い聞かせる『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。すると神は言われた『愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる』」。原文のギリシャ語では短い話の中に、私(ムー)と言う言葉が4回も出てくる。「私の作物、私の倉、私の財産、私の魂」、彼の関心は私だけだ。しかし、命が終る時、私の倉も、私の穀物も、私の財産も、私の魂も終る。故にイエスは言われる「愚かな金持ちよ、何が一番大切なものか、知らなかったのか」。
・金持ちは自分の命が自分の支配下にあると思っている。私たちも老後や不時の災害に備えて貯金すれば安心だと思っているが、その前に死んでしまうかもしれない。命は私たちのものではない。努力して蓄えても、死ねばその財産は他人のものになる。財産を残すことによって相続人の間に争いが起こり、かえって不幸を招くこともある。地上の財産は私たちが神の国に入るためには何の役にも立たない。だから「この金持ちは愚かではないか、本当に必要なものを持ってなかった」とイエスは私たちに問い掛けられる。
・命への道が「獲得し、蓄え、所有し、守る」ことでないとすれば、それは「感謝していただき、与え、仕える」道だ。ルカでは「日々、自分の十字架を背負い、従え」とある。毎日の生活の中で従う、具体的には、自分の大事なもの、時間とお金を捧げていく生き方だ。私たちは何故主日の礼拝に集うのか。せっかくの休日に、行楽地にも行かず、家族との団欒も捨てて、教会に集まる。それは一週間が守られたことを感謝し、最後の一日を主に捧げるためだ。聖書は、収入の十分の一を捧げよと語る。収入は神が与えて下さったのだから、その一部を神に返す。十分の一献金は痛みを伴う、しかし痛みを伴うからこそ価値がある。この痛みを通して、私たちは「獲得し、蓄え、所有し、守る」ことから解放されていく。
・「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」。これを私たちの現実の中で読みかえれば、「豊かであったのに主のために貧しくされた人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言える。「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」という言葉は次のように読み替えたい「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは私の弟子たちの奉仕により満たされる」。「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」は、次のように変わる「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは私の弟子たちの奉仕により、笑うようになる」。イエスが「私の弟子たち」と呼ばれるのは、今日この会堂に集まっている私たちだ。私たちは「神の前に豊かになる」ために、ここに集められている。