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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年2月1日祈祷会(申命記6章、最大の戒め「主を愛せ」)

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1.主をのみ愛せ

 

・申命記における最大の戒めは「主を愛せ」である。この戒めは「シェマ=聞け」として、告げられる。

-申命記 6:4-5「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。

・十戒の根本である第一戒、第二戒はこの言葉の中に吸収される。

-申命記5:7-9「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない・・・あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。私は主、あなたの神。私は熱情の神である。私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」

・それは律法を全て要約する言葉である。イエスも律法とは「主を愛することである」と言われた。

-マタイ22:36-40「『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか』。イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

・この戒めは大事であるから、心に留め、子どもに教え、印として持ち歩けと命じられている。

-申命記6:6-9「今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」。

・何故主の命に従うのか。それは主が民をエジプトから解放し、約束の地を与えてくれたからである。恵みに対する応答として、主に従えと命じられている。

-申命記6:21-25「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける」。

 

2.戒めと民

 

・この戒めに対して、イスラエルは忠実であり続けるかどうかが問われる。

-申命記6:10-12「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい」。

・イスラエルはまもなく偶像を拝み始める。神は私たちに恵みに対する応答としての生き方を求めるが、偶像は供え物をすれば祝福を約束する。偶像は私たちが主に従う窮屈な生き方を求めない故に、私たちは主を離れ、偶像を拝む。

-アモス5:21-24「私はお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとえ、焼き尽くす献げ物を私にささげても、穀物の献げ物をささげても、私は受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌を私から遠ざけよ。竪琴の音も私は聞かない。正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」。

・外面的に律法を守っても生活は何も変わらない。心から律法を守らない時、あるいは守れない時、人に災いが(イスラエルには捕囚が、私たちには苦難が)与えられる。苦難を通して、始めて、人は律法を心に刻む。

-エレミヤ31:33「来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」。

・悔い改めと回心が無い限り、人は神に従うことが出来ない。悔い改めることなしに神は見えない。

-使徒行伝2:37-38「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに『兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか』と言った。すると、ペトロは彼らに言った『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』」。

 

3.申命記6章の黙想(苦難、痛みの意味を考える)

 

・申命記はモーセが民に語った古い伝承=原申命記(前7世紀ヨシュア王時代)をもとに、国を滅ぼされてバビロンに囚われた祭司(申命記史家)が前5世紀ごろまとめたものと言われる。著者はモーセの口を借りて、捕囚に苦しむ同胞に使信を送っている。悔い改めと回心が無い限り、人は神に従うことが出来ない。そのためにイスラエル民族に国家の滅亡(バビロン捕囚)という痛みが与えられたと申命記は記す。申命記の主題は捕囚民の痛みだ。

・聖学院大学・平山正実先生「死生学」の講演から学んだことは「痛みの意味」だった。

-講義の中で、先生は「痛みの意味」について次のよう言われました「人は死や病を喜んで受入れる事が出来ない。出来れば避けたいと思う。それを人に受容させるものが痛みである。痛みは人間存在への危険信号である。人が生まれる時、母親は陣痛の苦しみの中で子を生む。子は痛みの中で泣いて生まれる。しかし、医学の進歩はこの痛みを人生から排除した。帝王切開すれば痛みなしでの分娩が可能であり、癌の痛みも緩和ケアーで抑えられる。現代人は痛みに鈍感になり、その分、死や病の受容が難しくなっている。真理(ギリシャ語アレテイア)は隠れているものを明るみに引き出すことだ。痛みに向き合う、つらくても逃げないことが大事だ」。

-「悪性の病気ほど痛みがない。死亡率の高い膵臓癌は痛みがないゆえに、気づいた時は既に治療ができない。ハンセン氏病も痛みがないゆえ、敗血症等を併発して死ぬ。糖尿病は沈黙の病と言われ、無症状のままで多臓器障害を引き起こす。痛みがない、災いがないことほど恐ろしいものはない。気がつかないうちに病が進行する。若い女性がリストカットする時、彼女は自分の存在を確認するため、血を流して痛みを知る。痛みの持つ意味を再確認することが必要だ」。

-「痛みがないことほど恐ろしいものはない。痛みを受入れる、そこから新しいものが生まれる」と先生は言われた。先生はさらに具体例を持って説明される。ダウン症の子を持つ父親はかつて言った「ダウン症の子を持つことによって、多くのことを学んだ。彼によって、社会と人間の本質的なことを教えられた。人は病気を通してやさしくなれるのだ」。ノーベル賞を受賞した物理学者の小柴昌俊氏は中学生の時に小児麻痺に罹り、右手の麻痺が残ったため、念願であった陸軍士官学校への進学をあきらめ、研究者になった。彼はある本の中で述べる「小児麻痺にならなければ、今日の自分はなかった」。

-痛みを受入れる、苦難を神から与えられたものとして受入れる時、それは「神の御心に適った悲しみ」(第二コリント7:10)となり、人に自分を見つめさせ、自分の限界を知り、その限界を超える神の御名を呼び求める契機になる。復活の喜びを経験するためには十字架の痛みが必要なのだ。「ドイツの哲学者ヤスパースは限界状況という言葉を用いてこれを説明する。人は限界状況(病、貧困、老、死等)に直面して自分の限界を知り、その時初めて生きる意味を問う。そこに宗教の場があるように思う」。精神医学の臨床経験から導き出された真理は聖書の語るところと一致している。

・エルサレムは紀元前598年にバビロニヤ軍の侵略を受け、10年後の前587年に滅んでいる。その時の民の苦しみを描くものが哀歌であるが、同書はエルサレム滅亡の混乱の中で語られた。その3章は絶望ではなく、希望を歌う「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」(哀歌3:28-33)。救いは滅びを通じて与えられるのである。

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