江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年12月19日祈祷会(エレミヤ書18章、陶工の手の中にある粘土)

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1.陶工の家に行けと命じられるエレミヤ

 

・エレミヤは主から「陶工の家に行け」と命じられる。陶工がどのように粘土を用いて器を造るのか、そして仕損じた器をどのように扱うかを見よと。エレミヤは谷にある陶工の家に下っていく。

-エレミヤ18:1-3「主からエレミヤに臨んだ言葉。『立って、陶工の家に下って行け。そこで私の言葉をあなたに聞かせよう』。私は陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた」。

・陶工はろくろを用いて粘土をこね、仕損じた粘土はこね直して、別の器を造る。主はエレミヤに言われた「私は陶工であり、人は粘土だ。粘土を用いて何を造るか、何を壊すかは陶工の自由ではないのか」。

-エレミヤ18:4-6「陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。そのとき主の言葉が私に臨んだ『イスラエルの家よ、この陶工がしたように、私もお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちは私の手の中にある』」。

・イスラエルの運命は神の御手の中にある。しかし神は同時にイスラエルに自由を与えられる。その自由により、イスラエルは神に従うことも、背くこともできる。しかし人は、その選択に責任を取る必要がある。

-エレミヤ18:7-10「ある時、私は一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし、断罪したその民が悪を悔いるならば、私はその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。またある時は、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、私の目に悪とされることを行い、私の声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す」。

・神は創造の自由を持つが、人にもまた悔い改めの自由が与えられる。そして悔い改めた者は神の憐れみを受ける。人はみな過ちを犯す。そのことが責められるのではなく、過ちを犯しても悔い改めないことが責められる。エレミヤを通して言われた主の言葉に民は答える「我々は自分の思う通りを行う。あなたの指図は受けない」と。

-エレミヤ18:11-12「今、ユダの人々とエルサレムの住民に言うがよい『見よ、私はお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ』。彼らは言った『それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから』」。

・「陶工と器の例え」は、捕囚地の預言者にも大きな影響を与え、第二イザヤは捕囚の民に向かって語り直した。

-イザヤ45:9「災いだ、土の器のかけらにすぎないのに、自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか『何をしているのか、あなたの作ったものに取手がない』などと」。

・新約のパウロは、悔い改めないユダヤ人たちに同じ言葉を投げた。

-ローマ9:20-21「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」。

 

2.エレミヤを殺す陰謀とエレミヤの報復の祈り

 

・18章後半はエレミヤを亡き者にしようというたくらみに対して、敵への報復を求めるエレミヤの告白だ。人々はエレミヤの言葉尻を捕えて彼を裁判にかけて殺そうとする。エレミヤがいなくとも、祭司も預言者も賢者もいると。

-エレミヤ18:18「彼らは言う『我々はエレミヤに対して計略をめぐらそう。祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない。舌をもって彼を打とう。彼の告げる言葉には全く耳を傾けまい』」。

・エレミヤはそれを知って激怒する。彼は自分の正しさを主に訴える「私は彼らのために働いてきたのに、彼らは私を亡き者にしようとしています」と。そして彼は敵への報復を主に願う。それは相手の破滅を願う激しい祈りだ。

-エレミヤ18:21-23「彼らの子らを飢饉に遭わせ、彼らを剣に渡してください。妻は子を失い、やもめとなり、夫は殺戮され、若者は戦いで剣に打たれますように・・・彼らは私を捕らえようと落とし穴を掘り、足もとに罠を仕掛けました。主よ、あなたはご存じです、私を殺そうとする彼らの策略を。どうか彼らの悪を赦さず、罪を御前から消し去らないでください。彼らが御前に倒されるよう、御怒りのときに彼らをあしらってください」。

・エレミヤは「彼らの罪を赦さないで下さい」と祈る。他方、「イエスは彼らの罪をお赦し下さい」と祈られた。ここに旧約と新約の違いがある。しかし共に大事な祈りだ。「彼らの罪を赦さないで下さい」、安価な恵みは何も解決しない。「彼らの罪を赦して下さい」、自らが代わりに死ぬことを前提にした高価な恵みだ。十字架上で自分を殺そうとする者の赦しを祈るイエスの祈りはこの地上でなされた最善の祈りだ。

-ルカ23:33-34「されこうべと呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』」。

 

3.エレミヤ18章の黙想(地獄をどのように考えるか、旧約から新約へ)

 

・陶器の譬えは19章にも続く。エレミヤがそこで見たのは、陶器師が粘土を用いて自分の思う通りに器を造り、気に入らない器は壊して別のものに造り変える姿だった。そのエレミヤに主は言われた「私がこの陶器師のようにふるまうことは許されないのか」と。そしてエレミヤは、壺を買い、その壺をベン・ヒノムの谷で砕くように命じられる。

-エレミヤ19:1-11「主はこう言われる『行って、陶器師の壺を買い、民の長老と、長老格の祭司を幾人か連れて、陶片の門を出たところにある、ベン・ヒノムの谷へ出て行き・・・あなたは、共に行く人々の見ているところで、その壺を砕き、彼らに言うがよい。万軍の主はこう言われる。陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。それほどに、私はこの民とこの都を砕く』」。

・このベン・ヒノムの谷のギリシャ語は、「ゲヘナ」と呼ばれ、やがて「地獄」の代名詞となる。

-エレミヤ19:6-9「それゆえ、見よ、と主は言われる。このところがもはやトフェトとか、ベン・ヒノムの谷とか呼ばれることなく、殺戮の谷と呼ばれる日が来る。私はユダとエルサレムの策略をこのところで砕く。私は彼らを剣によって、敵の前に倒し、その命を奪おうとする者の手に渡し、彼らの死体を空の鳥、野の獣の餌食とする。私はこの都を恐怖の的とし、嘲られるものとする・・・彼らの敵と命を奪おうとする者が彼らを悩ます時、その悩みと苦しみの中で、私は彼らに自分の息子や娘の肉を食らい、また互いに肉を食らうに至らせる」。

・地獄は存在するのだろうか。ヨハネ黙示録では、神の怒りによって、サタンに従う者たちには、「永遠の滅び」が臨むとする。神の怒りについて語った有名な説教に、ジョナサン・エドワーズの「怒れる神の御手の中にある罪人」がある。彼はイザヤ63章を引用して語る。「新生していない者は、怒れる神の御手の中にある。神は憤って彼らを踏みにじり、返り血を浴びた神の衣がよごれる」。

・保守派のロイドジョンズは、神の怒りを説教することへの反対論に対し、教会が神の怒りについて話さなくなってから、人々が教会から離れたと指摘している。また、ロイドジョンズは、リベラルの考えに反して、ジョナサン・エドワーズ、ジョージ・ホウィットフィールド、ピューリタン、プロテスタントの父祖たち、アウグスティヌスが原罪と神の怒りを教えた時に、神が多くの人を救いに導かれたことに注目している。福音派は、万人救済に反対し、永遠の地獄の教理を弁護して、多くの出版物を出した。

・他方、カール・バルトの神学においては、「イエス・キリストを信じる者も信じない者もすべて神の怒りから救い出される」とする。彼は語る「地獄は存在するかもしれないが、最後には空き家になる」。神は「人の滅びではなく、救いを望んでおられる」と考えた時、バルトの考え方に共感できる。黙示録はそのまま読む書ではなく、聖書全体から釈義すべき書である。

・旧約聖書はシナイ山で生まれた。そこは荒野の、緑も何もない場所である。そこにあるのは「どこまでも厳しく叱咤激励する「父なる自然」の世界であった」(井上洋治、イエスの生涯)。新約聖書はその旧約に対する疑問から生まれた。そこには緑豊かな、「母なる自然」があった。イエスの教えはユダヤ教(旧約聖書)に対する疑問から生まれた。井上洋治は書く「師イエスは、モーセ律法の否定と超克の上に、ユダヤ教を越えたご自分の新しい教えを説かれた」。イエスは血が通わなくなって形骸化した律法に、新しい命を吹き込む教えを説かれた。それを聞く私たちは、「殺すな」、「姦淫するな」という世の戒めを超える生き方、恵みを生活化する生き方が求められている。

・旧約の預言者を継承する洗礼者ヨハネの宣教は「悔い改めなければなければお前たちは滅びる」であった。他方イエスは無条件の赦しを語られた。イエスは旧約を超えた新しい教えを説かれた。

-マタイ11:4-6「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである。」

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