1.干ばつの災い
・紀元前597年、バビロン軍はユダヤに侵攻し、収穫物は荒らされ、住民は殺された。人々は神の助けを祈り求める。エレミヤ14-17章はこの時期における神とエレミヤの応答が描かれている。
-エレミヤ14:1-4「干ばつに見舞われた時、主の言葉がエレミヤに臨んだ。ユダは渇き、町々の城門は衰える。人々は地に伏して嘆き、エルサレムは叫びをあげる。貴族は水を求めて、召し使いを送る。彼らが貯水池に来ても、水がないので、空の水がめを持ち、うろたえ、失望し、頭を覆って帰る。地には雨が降らず、大地はひび割れる。農夫はうろたえ、頭を覆う」。
・この飢饉に対して、エレミヤは民を代表して、罪を告白し。救いを嘆願する。
-エレミヤ14:7-9「我々の罪が我々自身を告発しています。主よ、御名にふさわしく行ってください。イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。なぜあなたは・・・人を救いえない勇士のようになっておられるのか。主よ、あなたは我々の中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください」。
・しかし、主はエレミヤの執り成しの祈りを拒絶される。「民はその罪のゆえにこの災いを受けなければならない。あなたが執り成しても私は聞かない」と主はいわれた。
-エレミヤ14:10-11「この民のために祈り、幸いを求めてはならない。彼らが断食しても、私は彼らの叫びを聞かない。彼らが・・・献げ物をささげても、私は喜ばない。私は剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす」。
・エレミヤは反論する「彼らが罪を犯したのは偽預言者の言葉に踊らされたからです」と。
-エレミヤ14:13「私は言った『わが主なる神よ、預言者たちは彼らに向かって言っています。お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。私は確かな平和を、このところでお前たちに与えると』」。
・主は答えられる「偽りの預言者は罰する。しかし民はその預言者の言葉を聞いた人々も同じく罰する」と。
-エレミヤ14:15-16「彼らは私の名によって預言しているが、私は彼らを遣わしてはいない。彼らは剣も飢饉もこの国に臨むことはないと言っているが、これらの預言者自身が剣と飢饉によって滅びる。彼らが預言を聞かせている民は、飢饉と剣に遭い、葬る者もなくエルサレムの巷に投げ捨てられる・・・こうして、私は彼らの悪を、彼ら自身の上に注ぐ』」。
2.流血の災い
・エレミヤが見たのは流血と飢餓の惨状であった。城壁の外には敵に殺された者たちの死体が散乱し、内側では人々は飢えていた。
-エレミヤ14:18「野に出て見れば、見よ、剣に刺された者。町に入って見れば、見よ、飢えに苦しむ者。預言者も祭司も見知らぬ地にさまよって行く」。
・その惨状を見たエレミヤは、禁止されても執り成しの祈りをせざるを得ない「あなたは私たちを契約の民として下さった。そのことに免じて、私たちの罪を赦して下さい」と。
-エレミヤ14:19-21「あなたはユダを退けられたのか。シオンをいとわれるのか。なぜ、我々を打ち、癒してはくださらないのか・・・あなたに対して、我々は過ちを犯しました。我々を見捨てないでください。あなたの栄光の座を軽んじないでください。御名にふさわしく、我々と結んだ契約を心に留め、それを破らないでください」。
・それに対して厳しい答えが返ってくる。「剣に定められた者は剣に死ぬ」と。
-エレミヤ15:1-2「主は私に言われた『たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、私はこの民を顧みない。私の前から彼らを追い出しなさい。彼らがあなたに向かって、どこへ行けばよいのかと問うならば、彼らに答えて言いなさい。主はこう言われる。疫病に定められた者は疫病に、剣に定められた者は剣に、飢えに定められた者は飢えに、捕囚に定められた者は捕囚に』」。
・神は愛と憐れみに富たもう方(14:17で神は「夜も昼も涙を流す」といわれている)、その方がなぜユダが滅びるままになされるのか。それは民に本当の悔い改めがないからだ。民はまだ「我々と結んだ契約を心に留めそれを破らないでください」と言う。彼らはまだ「自分たちは救われるべきだ」と考えている。彼らが「私は救いに値しないものです」と告白するまで、裁きは続く。イエスは放蕩息子の例えを通してそれを明らかにされた。
-ルカ15:21「息子は言った『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません』」。
・その告白がなされた時、無条件の救いが彼らの上に臨む。だが、その時が来るまでイスラエルは苦しむ。生みの苦しみだ。国の滅亡と捕囚なしには、イスラエルは新しく生まれ変わることはできないのだ。まだ救いの時ではない。
-ルカ15:22「父親は僕たちに言った『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』。そして、祝宴を始めた」。
3.預言者の苦闘
・エレミヤは30年間、預言活動をしたが、人々は悔い改めず、北からの災いが現実となる。紀元前597年、バビロニア帝国が南ユダ王国を占領し、王と重臣たちが捕囚としてバビロニアに連れ去られた。第一次バビロン捕囚である。ただこの時は、ダビデ王家はゼデキヤ王に継承され、エルサレム神殿も無事だった。ダビデ王家がいて神殿があるかぎり、国威と神の守護を期待することが可能だったので、人々は真剣に悔い改めようとはしなかった。そして彼らはバビロニアに反逆し、紀元前587年に、バビロニア軍が攻め込んできて、エルサレムは徹底的に破壊され、ユダ王国は滅ぼされた(第二次捕囚)。人は滅ばないと悔い改めないのである。
・人々はエレミヤの言葉を聞かず、うそぶく「主は何もなさらない。エルサレムに神殿があり、ダビデ王朝がある限り、神は私たちを守り、飢饉や外国軍の侵略も起こらない」。矢内原忠雄はエレミヤを「悲哀の人」と呼ぶ。彼は語る「混沌の中にあって真実を見据え、真実を語る人は悲哀の人であります。世間の人は神などあるものかと神を無視してわがまま勝手に行動していました。その中で『神は目を開けておられる』、そのことをエレミヤ一人が見抜いたのです」。「審きを、審きと感じない」、そこに罪がある。アッシリヤからの独立を掲げたヨシヤ王はメギトでエジプト軍に敗れて戦死し(前609年)、エジプトの介入により後継王もエジプトの傀儡になった。人々に危機感がない、その時が危機なのである。
・エレミヤの預言は耳に痛く、誰も聞こうとはしない。その時、宮廷預言者や祭司が立ち、「平和」を約束する。彼らは神の怒りを軽く見るゆえに、安易に慰めと救いを語る。彼らは罪の問題の根本的な解決をせず、それを先延ばしにするゆえに、その罪は大きい。エレミヤは偽預言者を激しく糾弾する。主が求められるのは従う心だ。礼拝とは高価なものを捧げることではなく、「あなたに従います」との誓いを新たにすることだ。神の処罰を処罰として受け止める、それが悔い改めであり、そのためには、痛みを味わうことが必要なのである。
・礼拝が正しく行われない時、人は自分の利益のみを求めるゆえに、必然的に社会的不正が起こる。エレミヤは神の言葉を告げる「私の声に聞き従え。そうすれば、私はあなたたちの神となり、あなたたちは私の民となる。私が命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る」(7:23)。アメリカ副大統領カマラ・ハリスさんは母親がインドからの留学生だったが、母親シャマラは繰り返し、娘に対して語った「良い人間になるとは、自分自身の存在よりも大きな何かのために立ち上がることだ」。自分自身の存在よりも大きな何かのために、神のために働く。そのために礼拝に出て、神の言葉を聞き続ける。そして神の召しに従う決断を行う。神の言葉は私たちの生き方を問い直す力を持っている。