江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年5月9日祈祷会(申命記20章、聖戦について)

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1.聖戦の原則

 

・イスラエルにおいては、「戦いは神が為される」と信じられた。故に国家の行う戦争は、「聖戦」と呼ばれる。

-申命記20:1-4「あなたが敵に向かって出陣する時、馬と戦車、また味方より多数の軍勢を見ても恐れてはならない・・・いよいよ戦いの場に臨んだならば、祭司は進み出て、民に告げ、次のように言わねばならない『イスラエルよ、聞け。あなたたちは、今日、敵との戦いに臨む。心ひるむな。恐れるな。慌てるな。彼らの前にうろたえるな。あなたたちの神主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るからである』」。

・軍馬の数が多すぎる時には減らせと命じられる。人ではなく神が戦われることを知るためだ。

-士師記7:2-7「主はギデオンに言われた『あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルは私に向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう・・・』。こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った・・・『手から水をすすった三百人をもって、私はあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい』」。

・家を建てたばかりの者、畑を作ったばかりの者、結婚したばかりの者は戦いに参加せずに帰れと言われる。日本の戦陣訓では「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」と国家のために死ぬことを強制したのに比し、申命記では生きることを求める。命は神のものだからである。

-申命記20:5-7「役人たちは民に勧めなさい『新しい家を建てて、まだ奉献式を済ませていない者はいないか。その人は家に帰りなさい。万一、戦死して、ほかの者が奉献式をするようなことにならないように。ぶどう畑を作り、まだ最初の収穫をしていない者はいないか。その人は家に帰りなさい。万一、戦死して、ほかの者が最初の収穫をするようなことにならないように。婚約しただけで、まだ結婚していない者はいないか。その人は家に帰りなさい。万一、戦死して、ほかの者が彼女と結婚するようなことにならないように』」。

・これは温情規定ではない。心が別の所にある者は戦いに集中できない。だから帰れと言われている。

-申命記20:8「役人たちは更に民に勧めて言いなさい『恐れて心ひるんでいる者はいないか。その人は家に帰りなさい。彼の心と同じように同胞の心が挫けるといけないから』」。

・戦争は共同の目的を戦いとっていく。そこでは、目的にまい進できない者、怖れる者は参加するなと言われる。しかし、教会は異なる。教会は共に天国を目指して歩いていく。怖れる者、弱い者も参加せよと言われる。

-ルカ15:4-6「百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」。

 

2.聖戦の実際

 

・町を攻撃する時は、まず和平(シャローム)を勧告し、従うならば住民を殺すなと命じられる。

-申命記20:10-11「ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない」。

・従わない時は町を攻め、男を殺せ。しかし、戦闘員でない女子どもは殺すな。

-申命記20:12-14「しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。ただし、女、子供、家畜、および町にあるものはすべてあなたの分捕り品として奪い取ることができる」。

・この規定はアモリ人やカナン人には適用されない。彼らは存在そのものが否定される。古代においては、敵を生かせばやがて災いとなっていく。だから滅ぼし尽くせと言われる。厳しい掟だ。

-申命記20:16-18「あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。それは、彼らがその神々に行ってきた、あらゆるいとうべき行為をあなたたちに教えてそれを行わせ、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯すことのないためである」。

・実を結ばない木は切り取って塁に用いよと言われる。信仰はこの厳しさを持つ。

-ルカ13:6-9「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか』。園丁は答えた『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください』」。

 

3.聖戦をどう考えるか(教会史の学びの中で)

 

・初代教会は「殺すな」との規定を守り、教会員たちが兵士になることを禁じた。しかし多数派になれば教会の姿勢は変化する。紀元313年のコンスタンテイヌス帝のキリスト教公認を契機に教会は変わり始める。これを堕落と見るか、現実的な対応と見るかは見解が分かれる。

-カール・バルト・キリスト教倫理から「初代教会は戦争に反対してきた。しかし、コンスタンテイヌス以降、教会は戦争を肯定し、アルル司教会議(314年)では戦争参加を拒否するものを教会から除名することを決議した。アウグステイヌスでさえ聖戦論を唱えた(ゲルマン民族のローマ帝国侵略という歴史的背景があった)。その後も教会は戦争を肯定してきたが、これは新約聖書的認識に正しく従っていなかったと言わざるを得ない。戦争に対する特別の驚愕と嫌悪こそ、教会が他の人々に明らかにしなければならないことである。しかし、教会はこの世に存在する。従って、戦争が原理的に避けられるものだということを宣教すべき委託は持っていない。だが、この世においても、「戦争が原理的に不可避であり、原理的に正当化されるという悪魔的な考えに反対する委託は持っている」。戦争は絶対的にではなく相対的に、原理的ではなく実際的に避けられるものだという認識への落ち着いた理性が求められる」。

・バルトは続ける「教会は戦争論者に反対すると同時に、絶対平和主義にも反対すべきなのである」。

-バルト・キリスト教倫理から「ある民族と国家が他の国家により、非常緊急事態に追い込まれ、その存立や独立が脅かされるという究極的なことが起こった時、戦争は肯定されることもある。例えば、スイスの独立・中立・領土不可侵等が犯された場合はそれに該当するであろう」。

・「敵を愛せ」、「殺すな」というイエスの教えを信じる中で、私たちは今回のロシアによるウクライナ侵略をどう考えるべきなのか。国際法上、自衛のための戦争は許されるし、日本国憲法9条でも「急迫不正の侵害があった場合の防衛はできる」と解釈されている。先日の新聞にウクライナで日本語を学ぶ学生の言葉が紹介されていた「今、戦わなければ、平和は訪れない。平和は天から落ちてくるものではない」。平和は自分の力で勝ち取るしかないとの考え方がここにある。その中で、「右のほほを打たれたら左のほほを出せ」と言われ、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われた言葉をどう実践するべきか。正直答えが見いだせない。

・他方、ロシア正教会では「ウクライナはサタンに支配されている、戦争で死ぬロシア兵は罪を許される」などと説く。かつて十字軍を派遣した中世のローマ教皇と同じだ。ロシアの侵略戦争にこのような意味付けをしたことは正教会内で厳しい批判を招き、埋め難い溝を作ることになった。侵略開始以来、ロシア正教会トップのキリル総主教の発言は、「ロシアはウクライナにおいて自らを防衛している、世俗化、多元主義、保守的価値観の衰退など西側の「攻撃的価値観」から自衛している」と語る。ロシア正教会上層部、ロシア国家指導部の内部で用いられている論理では、全ては防衛戦争でありウクライナの人々は「悪魔である西側勢力」にそそのかされているとして、侵略を神学的・思想的に正当化し、キリル総主教はこの戦争を「聖戦」と語る。しかし、どれだけの人がこの言動を納得できるだろうか。

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