江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年5月16日祈祷会(申命記21章、共同体から悪を取り除け)

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1.共同体の救い

 

・聖書の信仰は「共同体の救い」だ。申命記21章の諸規定はそのことを示す。犯人がわからない死体を見つけたら、最も近い共同体において雌牛を犠牲として献げて血の贖いをせよと命じられる。

-申命記21:1-4「あなたの神、主があなたに与えて、得させられる土地で、殺されて野に倒れている人が発見され、その犯人がだれか分からないならば・・・死体に最も近い町の長老たちは・・・雌牛を水の尽きることのない川の、耕したことも種を蒔いたこともない岸辺に連れて行き、その川で雌牛の首を折らねばならない」。

・血を流した場合はその贖いをしなければならない。犯人が分かっている場合はその犯人を死刑にし、わからない場合は、代わりに雌牛を献げる。共同体の汚れを贖うためだ。

-申命記21:7-8「『我々の手はこの流血事件とかかわりがなく、目は何も見ていません。主よ、あなたが救い出されたあなたの民、イスラエルの罪を贖い、あなたの民、イスラエルのうちに罪なき者の血を流した罪をとどめないでください』。こうして、彼らの血を流した罪は贖われる」。

・反抗する息子があり、どうしようもない時には、共同体の長老の所に連れて行け。長老は息子を諌め、息子が悔い改めなければ、その息子を殺す。聖なる地から悪を取り除くためだ。

-申命記21:18-21「ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、両親は彼を取り押さえ、その地域の城門にいる町の長老のもとに突き出して、町の長老に、『私たちのこの息子はわがままで、反抗し、私たちの言うことを聞きません。放蕩にふけり、大酒飲みです』と言いなさい。町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す。あなたの中から悪を取り除かねばならない」。

・木にかけられた死体を翌朝まで放置してはならない。神が与えられた土地を汚してはならないと命じられる。

-申命記21:22-23「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」。

・「木にかけられた死体は、神に呪われたもの」と人々は信じていた。その中で「神は御子イエスを木にかけて殺された」、その意味を紀元200年頃に書かれたとされる新約偽典「ニコデモの告白」は語る。

-ニコデモの告白「(イエスの十字架の日)、私は隠れて遠くから彼の十字架の姿を見に行った。彼が死んだ後、民衆は過越祭が始まると縁起が悪いからといって、彼の死体を共同墓地の穴の中に投げ捨てようとしているのがわかった。私は、これだけは見過ごせないと思った。彼は未来永劫にわたって呪いから浮かばれないのだ。私は前から同じように彼に惹かれていた同僚議員のアリマタヤのヨセフを誘って彼の死体を貰い受けてきた。(中略)既に変形し硬直した体を運ぶのは辛かった。それを持ってきた没薬と沈香で覆い、最後は亜麻布で包んで差し上げた。ヨセフも私も、ほとんど終始無言であったが、私は心の中で『御免なさい。赦して下さい』と唱え続けていた。こうして夕暮れになる頃、埋葬し終わった」。

 

2.神を愛し、隣人を愛せ。

 

・申命記21章にあることはいずれも「共同体から悪を取り除け」という命令だ。聖書の信仰は個人の出来事ではなく、共同体の出来事だ。私たちが礼拝に集うことも、自分のためであると同時に他者の救いのためだ。「神を愛し、隣人を愛せ」、それが律法だと言われる。戦いで捕虜になった女を妻としても良いが、その女に誠意を尽くせと言われている。捕虜の女もまた隣人である。

-申命記21:10-14「捕虜を捕らえた時、その中に美しい女性がいて、心引かれ、妻にしようとするならば、自分の家に連れて行きなさい。彼女は髪を下ろし、つめを切り、捕虜の衣服を脱いで、あなたの家に住み、自分の両親のために、一か月の間嘆かねばならない。その後、あなたは彼女のところに入ってその夫となり、彼女はあなたの妻となる。もし彼女があなたの気に入らなくなった場合、彼女の意のままに去らせねばならない。決して金で売ってはならない。既に彼女を辱めたのであるから、奴隷のように扱ってはならない」。

・妻を二人持ち、その中でうとむ妻の子が長子であるならば、その子に長子権を与えよ。子に対して不公平ではいけない。

-申命記21:15-17「二人の妻があり、一方は愛され、他方は疎んじられた。・・・疎んじられた妻の子が長子であるならば、その人が息子たちに財産を継がせるとき、その長子である疎んじられた妻の子を差し置いて、愛している妻の子を長子として扱うことはできない。疎んじられた妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から二倍の分け前を与えねばならない。この子が父の力の初穂であり、長子権はこの子のものだからである」。

・「神を愛し隣人を愛せよ」と言われる。神は見えないから、見える隣人を神の子として愛せよ。近くの隣人を愛せなくて、どうして遠い人類全体を愛することが出来ようか。隣人を愛することこそ神を愛することだ。

-マタイ25:35-40「『お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた』・・・王は答える『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは私にしてくれたことなのである』」。

・しかし、私たちは隣人を愛せない自分を見出す。そのような私たちは主の十字架を仰ぐ以外に救いは来ない。

-ガラテヤ2:19-20「私は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。

 

3.隣人を愛するとはどういうことか

 

・マザー・テレサはある時語った「先日町を歩いているとドブに誰かが落ちていた。引揚げて見るとおばあちゃんで体はネズミにかじられウジがわいていた。意識がなかった。それで体をきれいに拭いてあげた。そうしたら、おばあちゃんがパッと目を開いて、『Mother、thank you』と言って息を引き取りました。その顔は、それはきれいでした。あのおばあちゃんの体は、私にとって御聖体でした」。(粕谷甲一「第二バチカン公会議と私たちの歩む道」)。「御聖体」、キリストの体の意味である。隣人のために何かを為した時、それは「キリスト」にしたことだとマザー・テレサの証しは語る。

・マザ-・テレサは1981年、82年、84年と三度来日している。最初の来日の時、インドの貧困者への援助を申し出た日本の企業に対し、彼女は語った「日本人はインドのことよりも、日本の中の貧しい人々への配慮を優先すべきです。愛はまず身近なところから始めるべきです。豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。だれからも愛されないという心の飢えはないでしょうか。誰からも必要とされず、愛されていないという心の貧しさはないでしょうか。物質的貧しさより心の貧しさはより深刻です。心の貧しさは、一切れのパンを食べられない飢えより、もっと貧しいことです。日本の皆さん、豊かさの中にも貧しさのあることを忘れないでください」。

・マザー・テレサは更に語る「この世で最大の不幸は、戦争や貧困などではありません。人から見放され、自分は誰からも必要とされていないと感じる事なのです」。隣人愛の実践は社会を変える。歴史学者スタークは語る「ローマ時代には疫病が繰り返し発生し、死者は数百万人にも上り、人々は感染を恐れて避難したが、キリスト教徒たちは病人を訪問し、死にゆく人々を看取り、死者を埋葬した。イエスがそうしなさいと語ったからだ。この『食物と飲み物を与え、死者を葬り、自らも犠牲になって死んでいく』信徒の行為が、疫病の蔓延を防ぎ、人々の関心をキリスト教に向けさせた。キリスト教が改宗者に与えたのは人間性だった」と(ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国」)。

・マザ-・テレサは「身近にいる人をまず助ける」よう勧めた。彼女はノ-ベル平和賞を受賞した時に、記念晩餐会の開催を断っている「晩餐会はいりません。そのお金を貧しい人に使って下さい」。マザ-・テレサは、「大切なことは、遠くにいる貧しい人や、大きな援助をすることではなく、身近な人に対して、愛をもって接することです」と語っていた。1997年マザ-・テレサはインドのカルカッタの、自身が創立した修道院で、「もう息ができない」の一言を残して天に召された。その生涯は、イエスの弟子として、インドの貧しい人たちに捧げ切った87年であった。

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