1.エレミヤ哀歌
・エレミヤは民の破滅を預言しながら泣く。イスラエルは自分の力では主に立ち返れない、ゆえに滅ぼされる。同時に彼は預言の空しさを嘆く。どのように語っても民は聞かない。エレミヤは民を捨てて荒野に行きたいと願った。
-エレミヤ9:1-2「荒れ野に旅人の宿を見いだせるものなら、私はこの民を捨て、彼らを離れ去るであろう。すべて、姦淫する者であり、裏切る者の集まりだ。彼らは舌を弓のように引き絞り、真実ではなく偽りをもってこの地にはびこる。彼らは悪から悪へと進み、私を知ろうとしない、と主は言われる」。
・エレミヤは世捨て人になりたいと思ったが、許されず、預言者として民の救いを模索する。民の中に一人でも正しい者がいれば神に執成すことができる。しかし正しい者は一人もいず、いるのは人を押しのけて自分を主張する者ばかりだった。ヤコブ(押しのける者)、先祖の名前が象徴するように、人は生まれた時から罪人なのだ。
-エレミヤ9:3-5「人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない。兄弟といっても、「押しのける者(ヤコブ)」であり、隣人はことごとく中傷して歩く。人はその隣人を惑わし、まことを語らない。舌に偽りを語ることを教え、疲れるまで悪事を働く。欺きに欺きを重ね、私を知ることを拒む、と主は言われる」。
・エレミヤのように純粋な人には罪人はついていけない。彼の真実、彼の純粋さは罪人を遠ざけ、罪人をはじく要素を持っている。預言者の限界である。しかしイエスは進んで罪人と交われた、医者を必要とするのは病人だからだ。
-マタイ9:10-13「イエスがその家で食事をしておられた時・・・徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が求めるのは憐れみであって、生贄ではないとはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
・「浦河ベテルの家」の実験は、このイエスの教えに従う行為ではないだろうか。精神の病に苦しめられている人々を治療し社会に復帰させるのではなく、幻想や妄想と共存することを肯定する。彼らは言う「精神病で町興しを」。しかしエレミヤはイエスではない。イエス以前の預言者だ。彼は人々の滅びを預言せざるをえない。
-エレミヤ9:6-8「万軍の主はこう言われる。見よ、私は娘なるわが民を、火をもって溶かし、試す・・・彼らの舌は人を殺す矢、その口は欺いて語る。隣人に平和を約束していても、その心の中では陥れようとたくらんでいる。これらのことを私は罰せずにいられようかと主は言われる。このような民に対し、私は必ずその悪に報いる」。
・9:9以下はエレミヤの哀歌である。エルサレムの町は破壊され、廃墟となる。だから哀歌を歌えと彼は言う。
-エレミヤ9:9-10「山々で、悲しみ嘆く声をあげ、荒れ野の牧草地で、哀歌をうたえ。そこは焼き払われて、通り過ぎる人もなくなり、家畜の鳴く声も聞こえなくなる。空の鳥も家畜も、ことごとく逃れ去った。私はエルサレムを瓦礫の山、山犬の住みかとし、ユダの町々を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる」。
・9:11-15は散文であり、捕囚期の加筆であろう。滅ぼされて初めて彼らは真理を知った。
-エレミヤ9:11-12「知恵ある人はこれを悟れ。主の口が語られることを告げよ。何故、この地は滅びたのか。焼き払われて荒れ野となり、通り過ぎる人もいない。主は言われる『それは、彼らに与えた私の教えを彼らが捨て、私の声に聞き従わず、それによって歩むことをしなかったからだ』」。
・人は自分の知恵と力と富に頼る。そして造られた創造主を忘れる。その結果、地は乱れ、慈しみと正義、恵みが消える。
-エレミヤ9:16-18「万軍の主はこう言われる。事態を見極め、泣き女を招いて、ここに来させよ。巧みな泣き女を迎えにやり、ここに来させよ。急がせよ、我々のために嘆きの歌をうたわせよ。我々の目は涙を流し、まぶたは水を滴らせる。嘆きの声がシオンから聞こえる。いかに、我々は荒らし尽くされたことか。甚だしく恥を受けたことか。まことに、我々はこの地を捨て、自分の住まいを捨て去った」。
2.心に割礼を受けよ
・誇るものは主を誇れとエレミヤは訴える。日本では年間20万件の妊娠中絶がある。子を「与えられたのではなく、自分が造った」と思うからだ。そこには神がない。
-エレミヤ9:22-23「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めて私を知ることを。私こそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事を私は喜ぶ、と主は言われる」。
・パウロはこの言葉を奢り高ぶるコリントの人に書き送った。「あなた方は自分を何者と思っているのか」と。「誇る者は主を誇れ」と
-第一コリント1:26-31「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。・・・『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです」。
・エレミヤは割礼の意味を再度考えよと民に語る。肉に割礼を受けても心に割礼を受けなければ何になろうかと。
-エレミヤ9:24-25「見よ、時が来る、と主は言われる。そのとき、私は包皮に割礼を受けた者をことごとく罰する。エジプト、ユダ、エドム、アンモンの人々、モアブ、すべて荒れ野に住み、もみ上げの毛を切っている人々、すなわち割礼のない諸民族をことごとく罰し、また、心に割礼のないイスラエルの家を
すべて罰する。」。
・ユダヤ人は割礼こそ神の民の救いのしるしと考えた。しかしパウロは「肉の割礼」ではなく、「霊の割礼」を求めよと語る。エレミヤの主張をパウロも踏襲した。
-ローマ2:25-29「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、身体に割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上の身体の割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです」。