1.神のみ前でほめ歌を歌う
・138編は「ダビデの詩」とダビデの名が冠されている。138-145編はダビデ小歌集と呼ばれる。詩編は150編からなるが、半数の73編にダビデの名が冠されている。この詩はユダヤ人がバビロン捕囚から解放された後の作とされ、当然にダビデの作ではない。それでもダビデの名を冠するのは、ダビデが時代を越えて傑出した詩人であり、後世の詩人がダビデを敬慕してダビデ風の詩を作り、ダビデを想起してその名を冠したと考えられる。
-詩編138:1-2「ダビデの詩、私は心を尽して感謝し、神のみ前でほめ歌を歌います。聖なる神殿に向かってひれ伏し、あなたの慈しみとまことのゆえに、御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさって、あなたは仰せを大いなるものとされました。」
・ユダヤはバビロニア帝国に占領され、国の指導者はバビロンに捕囚された。しかし神は彼らをバビロンから解放し、祖国に戻して下さった。その感謝が歌われている。
-詩編138:3「呼び求める私に答え、あなたは魂に力をあたえ、解き放ってくださいました。」
・バビロン捕囚からの解放はユダヤの歴史において、出エジプトと並ぶ大きな出来事である。詩人はバビロン捕囚からの解放を神の業とし、感謝する。絶望に打ちひしがれた捕囚の民の救いを求める声に答えた神が、民を捕囚から解放し、解放と希望の神となった。捕囚後のゼカリヤは捕囚解放を再建の時ととらえ、励ましている。
-ゼカリヤ8:9「万軍の主はこう言われる。勇気を出せ。あなたたちは、近ごろこれらの言葉を、預言者の口から、度々聞いているではないか。万軍の主の家である神殿の基礎が置かれ、再建が始まった日から。」
2.地の王すべてが主をほめ称える
・詩人は地上の王がみな神に従ったと肯定している。しかし、実際は、地上の王たちはほしいままに振る舞い、地上は乱れに乱れていた。この詩は、いまだ誰も見ず、現れてもいない、神の国を大胆に肯定している。
-詩編138:4-6「地上の王はみな、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。主の道について彼らは歌うでしょう、主の大いなる栄光を。主は高くいましても、低くされている者を見ておられます。遠くにいましても、傲慢な者を知っておられます。」
・結びの7-8節は苦難の現実に戻っている。苦難の道を歩む人々のために、神の守護を願い祈り求めている。世の乱れはいつまでも去らず、すべての価値観が崩れ、何を拠り所とするか悩むとき、人は初めて幾世変わらぬ神の存在に気づき、神に拠り所を求める。そして神の言葉は、苦境にある人々を、励まし続けていることに気づく。
-詩編138:7-8「私が苦難の道を歩いているときにも、敵の怒りに遭っているときにも、私に命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。主は私のために、すべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの慈しみが、とこしえにありますように。御手の業をどうか離さないでください。」
3.地の王さえも主の支配下にあるとの信仰
・イスラエルの民は弱小の民であったが、捕囚を通して神が捕囚地にもおられることを知り、彼らの神が「民族の神」を超えて、「天地を創造し、地上の歴史を導く神」であることを信じた。その時、地上の王たちさえ、神の器となる。イザヤはアッシリア王の攻撃をイスラエルに対する「神の怒りの鞭」と表現した。
-イザヤ10:5-6「災いだ、私の怒りの鞭となるアッシリアは。彼は私の手にある憤りの杖だ。神を無視する国に向かって、私はそれを遣わし、私の激怒をかった民に対して、それに命じる。『戦利品を取り、略奪品を取れ。野の土のように彼を踏みにじれ』と」。
・エレミヤは故国を滅ぼしたバビロニア王ネブカドネザルを、神に命じられた「主の僕」(25:8-9)と呼んだ。
-エレミヤ25:8-9「万軍の主はこう言われる。お前たちが私の言葉に聞き従わなかったので、見よ、私は私の僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる」。
・そして亡国と捕囚こそがイスラエル「再生の道」だとエレミヤは信じた(29:10-11)。
-エレミヤ29:10-11「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」。
・捕囚地の預言者第二イザヤは、バビロニアに進軍するペルシャ王キュロスを、主によって油注がれたメシア、解放者と称える。
-イザヤ45:1「主が油を注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。渡しは彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ、どの城門も閉ざされることはない」。
4.詩篇138編の黙想
・イスラエルの信仰者たちは、弱小の民でありながら、彼らの神ヤハウェが天地創造の神であり、地上の歴史を導く唯一の神であることを信じた。預言者たちは地上の王たちの行為の中に、ヤハウェの意思を見た。彼らはやがて諸国民が主(ヤハウェ)を礼拝するためにエルサレムに参詣するといった終末預言へ歌い始める(月本昭男「詩編の思想と信仰から」)。
-イザヤ2:1-5「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。
・月本は語る「大国が滅び、小国イスラエルが生き続けて理由はイスラエルのこの信仰による」。「弱小の民イスラエルは存続し続け、アッシリアもバビロニアもペルシャも滅びた。イスラエルの信仰者たちはこうした歴史の背後に、「低き者」に目を注いでこれを高め、自らの力を誇る「高き者」を低くする主ヤハウェの意思を見て取った。そして地の王すべてがそのことを認め、主ヤハウェに帰依する時代の到来を待ち望んだ」。
-詩篇72:11-14「すべての王が彼の前にひれ伏し、すべての国が彼に仕えますように。王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を、助けるものもない貧しい人を救いますように。弱い人、乏しい人を憐れみ、乏しい人の命を救い、 不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように」。
・この旧約の神観がやがて「小さき者の神」として、ナザレのイエスに引き継がれていく。
-マタイ25:35-40「『お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ』。すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』」
・社会学者ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国」によれば、福音書が書かれた紀元100年当時のキリスト教徒は数千人という小さな集団であり、紀元200年においても数十万人に満たない少数であった。その彼らが紀元300年には600万人を超え、キリスト教が国教となる紀元350年頃には3千万人、人口の50%を超えたとされる。スタークは「キリスト教の中心教義が人を惹き付け、自由にし、効果的な社会関係と組織を生み出していった」からだとする。ローマ時代には疫病が繰り返し発生し、時には人口の相当数を失わせるほどの猛威を振るった。人々は感染を恐れて避難したが、キリスト教徒たちは病人を訪問し、死にゆく人々を看取り、死者を埋葬したと伝えられている。何故ならば聖書がそうせよと命じ、教会もそれを勧めたからだ(紀元251年司教ディオニシウスの手紙、エウセビオス「教会史7.22.7-8」)。