1.主こそ王なり
・詩編93編については「王の即位式」に歌われた賛美とする見方と、終末信仰を歌ったものとする見方に分かれている。この詩の成立が王国滅亡後であると思われることより、現実の王を失ったイスラエルが、「主こそ王である」という信仰に立って歌ったものであろう。最初の1-2節では、全世界の統治者である主が賛美されている。
-詩編93:1-2「主こそ王。威厳を衣とし、力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。御座はいにしえより固く据えられ、あなたはとこしえの昔からいます」。
・「世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない」、イスラエルはバビロニア帝国に国を滅ぼされ、王宮も焼かれ、異邦の地に捕囚となった。彼らは絶望していた。しかし主は彼らをそこから救い出し、故国に帰還させてくださった。今こそ彼らは知った「主こそ真の王であることを」と詩人は歌っている。亡国・捕囚・救済の出来事は地の基が震え動く出来事であった。しかしその中で主の礎は揺らがなかった。詩編46編も同じ喜びを歌う。
-詩編46:2-4「神は私たちの避けどころ、私たちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。私たちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」
・「潮は打ち寄せ、大水はとどろくとも、主の礎は動かない。何故ならば主こそが潮の基を定め、天地を創造された方であるから」と詩人は創造主なる主を賛美する。
-詩編93:3-4「主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。大水のとどろく声よりも力強く、海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主」。
・イスラエルにおいては、水は原初の混沌の象徴である。創世記は、創造の前には「地は形無く、空しく=トーフー・ヤボーフー、闇が淵の表にあった」とする。淵=原始の海=テホーム。創造の前、地は混沌(カオス)であったが、そのカオスの中に光が創造された。闇を光が切り裂き、カオスが神の言葉によりコスモス(秩序)になった。
-創世記1:1-3「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』、こうして、光があった」。
2.地の基震え動くとも
・「天地は動くとも主の御座は動かない」というのが旧新約を通じた聖書の信仰である。私たちも東日本大震災を経験して、改めて「地の基」が揺れ動くというイザヤ24:18の言葉を思い起こした。イザヤは人間の罪の故に、天の水門は開かれ(大洪水が来る)、地の基は震え動く(大地震が起こる)との預言した。大地震と大洪水、まるでこの度の東日本大震災を預言したような箇所だ。
-イザヤ24:18-20「天の水門は開かれ、地の基は震え動く。地は裂け、甚だしく裂け、地は砕け、甚だしく砕け、地は揺れ、甚だしく揺れる。地は、酔いどれのようによろめき、見張り小屋のようにゆらゆらと動かされる。地の罪は、地の上に重く、倒れて、二度と起き上がることはない」。
・ドイツ人亡命者パウル・ティリッヒは、第二次世界大戦直後、イザヤ24:8から「地の基ふるい動く」という説教を行った。二度の世界大戦を経験し、広島やアウシュヴィッツの悲惨を見た者は、人間の罪が「地の基」を震え動かしたと思わざるを得ない。
-「これらの言葉を真剣に取り上げないで過ごした数十年、否、数世紀さえもがあった。しかし、そうした時代は過ぎ去ったのである。今やわれわれは、こうした言葉を真剣に考えなければならない。なぜなら、彼らの言葉は、人間の大多数が今日経験し、またおそらく余り遠くない将来において全人類が嫌というほど経験することであろうこと、すなわち、『地の基がふるい動く』ということを目の当たりに見るように描いているからである。預言者の幻は、今や歴史的現実とさえなろうとしている」。
・日本列島は地震と噴火と津波と台風のリスクにつねにさらされている。天災は列島住民にとって不可避の運命である。だから、私たちは「天災にどう対処すればいいのか」を国民文化として知っている。そして、私たちはそこから立ち直る。しかし、今回の大震災の問題点は原子力発電所の被災とそれに伴う放射能汚染を回避できなかった人災にある点だ。人間は自ら制御できないものを制御できると過信したのではないだろうか。ティリッヒは語る。
-「人間は地の基を震い動かす力を創造的な目的のために、進歩のために、平和と幸福のために用いることができると考えてきた。人間は何故神の創造の業を継承できないのか、何故神になってはいけないのかと問いかけてきた・・・そして人間はその力をワルシャワ、広島、ベルリンで用いてきた。その結果、何が起きたのか」。
・天災は罪の結果ではない。しかし人災は罪の結果だ。人間は自然の管理を委ねられている存在であるのに、いつの間にか自然を支配できると思い込んだ。その人間に対する裁き、あるいは警告として原発事故や戦争があるのではないか。
-イザヤ24:5-6「地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り、永遠の契約を棄てたからだ。それゆえ、呪いが地を食い尽くし、そこに住む者は罪を負わねばならなかった。それゆえ、地に住む者は焼き尽くされ、わずかの者だけが残された」。
・地の基は震え動くとも、そこに「動かざる存在」がある。動かざる主を賛美する。それが詩編93篇だ。
-詩編93:5「主よ、あなたの定めは確かであり、あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り」。
・今回の震災に対して私たちはヨブ記を読み直した。神は神であり、人は人であることを知るために。
-ヨブ記38:1「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、私に答えてみよ。私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」。
・しかし裁きは滅びではない。主は裁きを通して人間を救おうとされる。「裁きは救いである」、その信仰を持って震災や戦争の意味を考えるべきであろう。
-イザヤ51:6「天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、蚋のように死に果てても、私の救いはとこしえに続き、私の恵みの業が絶えることはない」。
3.詩篇93編の黙想~ヤハウェ(主)は王である
・旧約聖書はしばしば神ヤハウェを王と表現する。その中には大きく分けて二つの思想があると月本昭男は述べる。一つはヤハウェを「イスラエルの王」とする神理解である。民族の王である。
-申命記33:5「民のかしらたちが、イスラエルの部族と共に集まった時、主はエシュルンで王となられた」。
-イザヤ33:22「まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる」。
・もう一つの考え方は、「ヤハウェこそ全地を治める王」、普遍的な王である。これはダビデ王国が崩壊した後に生まれた。
-イザヤ52:7「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる」。
- 詩篇93編の黙想Ⅱ~戦争の惨禍を考える
・ティリヒは述べた。「第二次大戦によりワルシャワ、広島、ベルリンは廃墟となった」と。今ロシア軍の砲撃により、キエフが廃墟になろうとしている。あるロシア人女性は訴える(2022年3月15日朝日新聞)。
-「ヒトラーがキエフを爆撃したことを私の父は覚えています。ところが、こんどはプーチンです。ウクライナとの戦争で用いられる物言いを聞くだけで、胸をナイフで刺されたような気がする。テレビで言うでしょう、キエフが包囲された、ハリコフが空爆、ヘルソンは陥落、こんなのは第2次大戦中の物言いです。まるで小学校の歴史の教科書の中に転げ落ちてしまったようだけれど、ただ私たちは今、解放者の側でなく、占領者の側にいる」。
・私たちは侵略を続けるプーチン政権を批判することはできるが、その中でロシア人もまた苦しんでいる事実を知る必要がある。政権と国民は違う。私たちはウクライナ国民に寄り添うと同時に、ロシア国民にも寄り添うべきであろう。両者とも苦しんでいるのだから。
-「戦争への態度を表明することすらむずかしい。戦争を戦争と言うことすらできない。戦争反対の署名のために仕事を辞めさせられる。デモに出れば、こん棒で殴られたうえに監獄へ入れられる。知らない人たちと今起こっていることについて意見を口にすることすら危うい、密告されるおそれがある。前線でなにが起こっているのか正しい情報を得るのはもっと難しい。私たち皆の考えでは、プーチンはウクライナばかりでなく、ロシアをも殺したのです」。