1.ハレルヤ詩編(過ぎ越し祭りの歌)
・詩編113~118編はハレルヤ詩編と呼ばれ、過越祭の食卓で歌われたものである。イエスが弟子たちと過越の食事をされてオリーブ山に向かわれた折、「一同は讃美の歌を歌ってオリーブ山に出かけた」(マルコ14:26)とあるが、その際歌われた詩編もこのハレルヤ詩編の一つであったと思われる。当時の慣習では、113編、114編を過越祭の食事の前に、115編以降を食後に歌う慣習があったとされる。
・113編は「天高く栄光の中におられる主が自らを低くされて地上の我等を救って下さった」と歌う。
-詩編113:1-3「ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ、主の御名を賛美せよ。今よりとこしえに、主の御名がたたえられるように。日の昇るところから日の沈むところまで、主の御名が賛美されるように」。
・なぜイスラエルの救済が全地(日の昇るところから日の沈むところ)の業になるのか、それはイスラエルが自分たちを救い出して下さった主の御業の中に、創造の神、天地を支配される方を見出したからである。イスラエルの救いの原体験である出エジプトの出来事について、カトリック祭司・和田幹男氏は次のように解説する。
-「出エジプトの出来事は世界史的には規模の小さい出来事であったが、体験したヘブライ人の集団とその子孫にとっては忘れられない大きな出来事であった。人間的には不可能に見えた脱出に成功し、そこに彼らは自分たちの先祖の神、主の特別の御業を見た。この歴史上の実際の体験を通じて、彼らはその神が如何なるものであるかをも知り、全く新しい神認識に至った。出エジプトという救いの歴史的な出来事を事実として体験し、自分たちの神は実際の歴史的な出来事に関わってくださるお方、歴史を導く神であるというイスラエル独特の神の認識がそれ以来始まったのではなかろうか」。
・救いの出来事を実際的に体験した、それが人々の信仰の根幹になる。詩編113編の詩人は新しい出エジプトを、遠い異国バビロンからの解放という出来事を自ら体験した。だから賛美するのである。
-詩編113:4-6「主はすべての国を超えて高くいまし、主の栄光は天を超えて輝く。私たちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き、なお、低く下って天と地を御覧になる」。
2.自らを低められる神
・「御座を高く置かれる」方が、「低く下って天と地を御覧になる」、そこに詩人の信仰がある。異邦人の神々は「天高く鎮座する」が、「低く下って」人々の苦しみを見ることはない。私たちの神こそ、私たちの叫びを聞いて下さる方だとの信仰がここにある。
-イザヤ57:15「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。私は、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」。
・主は私たちの日常の苦しみに関与される。社会から排除されて塵の中で泣いている者も、子ができない故に離縁されようとしている婦人の悲しみさえも、主はご覧になる。
-詩編113:7-9「弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ、自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返してくださる。子のない女を家に返し、子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ」。
・旧約の世界は、子を生まない女性は離婚されても文句を言えない社会だった。このような苦難の中で泣く者に「主は目を留められる」と歌ったのが不妊で悩むサムエルの母ハンナであった。ハンナは祈って子を与えられた。詩編113編にはハンナの歌との並行が見られる。
-サムエル記上2:5-8「子のない女は七人の子を産み、多くの子をもつ女は衰える。主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げ、高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる」。
・このハンナの歌をルカは、処女降誕という形で、子を与えられたマリアの口にのせる。
-ルカ1:46-54「そこで、マリアは言った。『私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう、力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません』」。
・イエスも言われた「求めよ、そうすれば与えられる、たたけ、そうすれば開けられる」。
-ルカ11:9-13「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか・・・天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。
・「開かれるかも知れないから門をたたくのではない、必ず開かれるからたたく」(榎本保郎)。ただ、その開かれ方が私たちの求めるものとは違うかも知れない。詩編113編の詩人はバビロン捕囚からの解放を賛美するが、第一次捕囚は前597年、捕囚からの解放は前538年、その間に60年間の時の壁がある。最初の捕囚でバビロンに連行された人々の大半は遠い異国で死んでいる。彼らは救われなかったのか。救いとは「自分が今救済されることはないかも知れないが、神は必ずその業を為される、その希望を持つ」ことが救いなのではないだろうか。
-ヘブル11:13「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。
- 苦難にあえぐ者に手を差し伸べる方
・詩篇113編は、天上に君臨する高き神である方が、地上に目を注ぎ、苦難にあえぐものに手を差し伸べる方であるとの信仰を歌う。苦難を通して人は神を求め、神の応答を通して歴史が形成される。イスラエルはバビロニアに国を滅ばされることを通して、自分たちが何故砕かれたのかを求め、その求めの中で旧約聖書が編集され、聖書によって生かされる民に変えられていく。イスラエルは国家としては前587年に滅んでいる。しかし、捕囚の苦しみの中で彼らは自分たちの存在の意味を探り、自分たちが神により選ばれ、特別な使命を与えられたとの自覚を持つようになる。その自覚の元に編集されたのが創世記であり、出エジプト記であった。旧約聖書の中心である律法の書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)はこの捕囚時代にバビロンでまとめられた。国を無くし、国民共同体としては滅んだイスラエルが、今信仰共同体として、聖書の民となった。
・イスラエルを滅ぼしたバビロニアも、そのバビロニアを制圧したペルシャも今はいない。更にペルシャを滅ぼしたギリシア帝国もローマ帝国も滅んで消えた。しかし、イスラエルの民は2500年の歴史を生き抜き、同じ民族として現在も生きている。彼等を生かし続けたものは明らかに、苦しみの中で生み出された聖書である。私たちも人生において多くの苦難に出会い、その苦難はある時には限界を超えているように思われ、絶望した人たちは自殺していく。しかし、苦難には意味があり、苦難を通して神が語られていることを知る者は、その苦難が時の経過と共に祝福に変えられていくのを知る。どのような時も自ら死を選んではいけない。
・「病者の祈り」も苦難の中から生まれた祈りである。挫折した者に目をかけられる神を求める歌である。
-病者の祈り「私は神に求めた、成功をつかむために強さを。私は弱くされた、謙虚に従うことを学ぶために。私は求めた、偉大なことができるように健康を。私は病気を与えられた、よりよきことをするために。私は求めた、幸福になるために富を。私は貧困を与えられた、知恵を得るために。私は求めた、世の賞賛を得るために力を。私は無力を与えられた、神が必要であることを知るために。私は求めた、人生を楽しむために全てのものを。私は命を与えられた、全てのものに楽しむために。求めたものはひとつも得られなかったが、願いはすべてかなえられた。神に背く私であるのに、言い表せない祈りが答えられた。私はだれよりも最も豊かに祝福されている」。
・預言者イザヤは歌う「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2:4)。現実の政治に絶望する故に、イザヤは問題の解決を神に求めた。このイザヤ書の言葉は、NYの国連ビルの土台石に刻み込まれている。第二次大戦の惨禍を経験した諸国は、「もう戦争はしない」と願い、イザヤの預言を刻んだ。しかし言葉を刻んだだけでは平和は来ない。平和は人間が自分の限界、無力を知った時に来る。日本は1945年に戦争に負けた。もう兵器はいらなくなり、砲弾にするために兵器工場に集められた鉄が鋳られ、釜や鍬が作られた。戦争に負けたからこそ、日本人はイザヤの預言を実現できた。他方、戦勝国となったアメリカは戦争を繰り返している。両国の違いは1945年にあるのではないかと思える。日本は1945年に戦争に敗北し、アメリカは勝った。勝った国においては戦争をやめることが出来ず、負けた国は戦争をやめた。このことは何かを示唆するように思える。