1.驕り高ぶる者が栄える世にあって
・本詩は権力者の抑圧に苦しむ詩人が、神に身を委ねることで平安を与えられた、その感謝を歌う詩である。いつでもどこでも権力者は傲慢になり、弱者をむさぼる。その中で詩人は、神が悪しき者を裁いて下さる様に祈る。
-詩編94:1-4「主よ、報復の神として、報復の神として顕現し、全地の裁き手として立ち上がり、誇る者を罰してください。主よ、逆らう者はいつまで、逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。彼らは驕った言葉を吐き続け、悪を行う者は皆、傲慢に語ります」。
・「報復の神」、人に代わって神が報復されるゆえに、その審判に委ねよというのが、神の戒めであった(申命記32:35「私が報復し、報いをする」)。詩人もそれは分かっているが、悪人のうそぶく言葉に苛立っている。
-詩編94:5-7「主よ、彼らはあなたの民を砕き、あなたの嗣業を苦しめています。やもめや寄留の民を殺し、孤児を虐殺します。そして、彼らは言います『主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない』と」。
・悪人が悪を犯しても罰せられるわけではない。世の中では悪人が栄え、義人が虐げられるという現実がある。悪人はいつもうそぶく「神などいない、悪を行っても罰せられることはない」と。
-詩編73:11-12「彼らは言う『神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか』。見よ、これが神に逆らう者。とこしえに安穏で、財をなしていく」。
・詩人はそれに反論する「神は見ておられる。悪しき者の企みを裁かれる」。そうでなければいけないはずだと。
-詩編94:8-11「民の愚かな者よ、気づくがよい。無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか。人間に知識を与え、国々を諭す方に、論じることができないとでもいうのか。主は知っておられる、人間の計らいを、それがいかに空しいかを」。
2.私は報復しない
・詩人は苦難の中にある。彼の敵は彼を苦しめている。彼はこれまで悪人を告発し、「あなたは何故それを放置されるのか」と神を責めていた。しかしいくら悪を告発しても平安はなかった。その時彼は気づく「神はすべてを見ておられる。そして時が来れば正しい裁きをなさる。それを待とう」。そう思った時、彼に平安が臨んだ。
-詩編94:12-15「いかに幸いなことでしょう、主よ、あなたに諭され、あなたの律法を教えていただく人は。その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。神に逆らう者には、滅びの穴が掘られています。主は御自分の民を決しておろそかになさらず、御自分の嗣業を見捨てることはなさいません。正しい裁きは再び確立し、心のまっすぐな人は皆、それに従うでしょう」。
・C.S.ルイスは「被告席に立つ神」の中で語る。「古代人は鋭い罪意識を持ち、被告人が裁判官に近づくように神に近づいていった。しかし現代人は罪の意識を持たずに自分が裁判官となり、神が被告席につく」。現代人は語る「もし神がいるならば、600万人がアウシュビッツで殺された時、なぜ神は何もしなかったのか」、「もし神がいるなら、3.11の大津波で2万人の人が溺れ死ぬのを、なぜ放置されたのか」、「もし神がいるなら、本当にいるのならば、それを証明して見せよ」。現代人は神を被告席に立たせ、裁いている。
・告発する人は、「自分は正しい」との前提に立つ。その時、自己の正しさと相手の正しさが対立し、混乱が深まる。そこから生まれるのは思い煩いだけだ。私たちは不正を告発するのではなく、神がそれを正される日を待ち望めば良い。「正しすぎてはいけない」、人間の正しさは神の前では無に等しい。
-詩編94:16-19「災いをもたらす者に対して、私のために立ち向かい、悪を行う者に対して、私に代わって立つ人があるでしょうか。主が私の助けとなってくださらなければ、私の魂は沈黙の中に伏していたでしょう。『足がよろめく』と私が言ったとき、主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。私の胸が思い煩いに占められたとき、あなたの慰めが私の魂の楽しみとなりました」。
・それは不正を、「見ざる、聞かざる、言わざる」として放置することではない。何故不正があるのか、神がどうしようとしておられるのかを祈っていくことだ。その時、ニーバーの祈りが想起される。
-ラインホルド・ニーバーの祈り「神よ、 変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。
・神の委託を受けて正しく民を治めるべき王が抑圧者となり、中立であるべき裁判官までが法を曲げる現実がある。そこには神の正義がないようにさえ思える。その中で神の正義に委ねていき、自分では報復しない。
-詩編94:20-23「破滅をもたらすのみの王座、掟を悪用して労苦を作り出すような者が、あなたの味方となりえましょうか。彼らは一団となって神に従う人の命をねらい、神に逆らって潔白な人の血を流そうとします。主は必ず私のために砦の塔となり、私の神は避けどころとなり、岩となってくださいます。彼らの悪に報い、苦難をもたらす彼らを滅ぼし尽くしてください。私たちの神、主よ、彼らを滅ぼし尽くしてください」。
3.報復を求めない祈り
・2001年9月11日、テロ攻撃を受けた米国・ブッシュ大統領は、報復を求めて、アフガニスタンやイラクを攻撃した。それから20年、無意味な多くの血が流された。「自分の手で報復しない、神に委ねる」、それは命に関わる大事な信仰なのだ。
-ローマ12:19-21「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。
・それを実行した人々がいる。ジェームズ・マグロー「グランド・ゼロからの祈り」、テロで破壊された貿易センタービルと同じ地域にあったオールド・ジョン・ストリート・合同メソジスト教会の2001年9月16日から10週間の礼拝説教の祈りを集めた本で、グランド・ゼロ=爆心地に立つ教会が、出来事をどのように受け止めていったのかが祈りの形で記されている。
-事故から5日後の9月16日、犠牲者の多くはまだ瓦礫の下におり、教会は電気が止まっている中で、ろうそくの明かりの中で礼拝を持った。広島やベルリンで起きたことが今自分たちの上に起こったことを悲しみ、亡くなった人に哀悼を捧げながらも、教会は祈る「仕返しと報復を立法化せよと要求する怒りの声が悲劇の現場から教会の説教壇に至るまで鳴り響いています・・・復讐を求める合唱の中で『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』と促されたイエスの御言葉に聞くことが出来ますように」。
-次の週、町には星条旗があふれ、国内のイスラム教徒はテロのとの関連を疑われて次々に拘束されていく。「アメリカに忠誠を誓わない者はアメリカの敵だ」との大統領声明が出される中で教会は祈る「戦争の風が勢いを増しています。どうか私たちに聖霊を吹き込んで下さい・・・私たちの怒りと復讐の要求を平和への切望に取り替えて下さい」。やがてアフガニスタンに対する報復攻撃が始まり、教会は祈る「現在起きている事件の中で、全ての人々への同情心で私たちを満たすよう、聖霊を送って下さい。その人々とはアフガニスタンの罪なき子どもたち、女や男たちです。おお神様、あなたの愛に満ちた霊を全ての悩める心に吹き込んで下さい」。
-世の人々は同胞を殺された怒りと怖れの中で、アフガニスタンを憎み、攻撃するが、教会はアフガニスタンの人々のために祈る。何故ならば、神は「全ての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられ」、「キリストは全ての人のために贖いとして御自身を捧げられた」からだ。キリストはアフガニスタンの子供や女や男のために死なれた。神はアフガニスタンの人々が空爆で死ぬことを望んでおられない。「国は間違っている、神様、為政者のこの悪を善に変えて下さい」と教会は祈る。
・同時多発テロに端を発した2000年のアフガン戦争と2003年からのイラク戦争を抱え、米社会は疲弊した。米ブラウン大ワトソン研究所が21年6月に公表した報告書によると、同時多発テロ以降の戦闘行為で死亡した米兵は7057人。しかし、自殺した現役兵士と退役軍人の合計は4倍超の3万177人に上る。3千人の自国民の報復のために米軍だけで4万人が死んでいる。一時はブッシュを支持したアメリカ国民も今ではブッシュの政策は間違っていたと認める。2022年、ロシアのウクライナ侵略で、また同じことが起きている。何故だろうか。「自分の手で報復しない、神に委ねる」、平和はそれ以外の方法では来ない。