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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年12月8日祈祷会(詩篇128編、多くの家族を与えられる祝福)

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1.家族を与えられる幸い

・詩篇128編は「幸いなるかな」で始まる祝福の歌である。「幸いだ」ヘブル語アシュレー、ギリシア語マカリオイである。主を畏れ、主の道を歩む者は「幸い」であると歌われる。
-詩篇128:1「都に上る歌。いかに幸いなことか、主を畏れ、主の道に歩む人よ」。
・詩篇1編も同じ「幸いなるかな」で始まり、同じく主に従う者への祝福を歌う。
-詩篇1:1-3「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。
・128編は「あなたの手が労して得たものはすべてあなたの食べ物となる」とある。この詩が書かれたのは捕囚帰還後であり、イスラエルはいつも他国の支配下にあり、地の実りがその時の支配者に取り上げられることもしばしばであった(イザヤ65:21参照)。
-詩篇128:2「あなたの手が労して得たものはすべて、あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか」。
・「あなたの手が労して得たものはあなたの食べ物となる」。私たちはそれを当然と思うが、戦禍に苦しめられてきたイスラエルでは「働いて得た果実が略奪される」こともしばしばあった。ロシアに侵略され、畑の実りを戦禍で焼かれ、子供たちを殺されているウクライナの人びとは、熱い思いでイザヤ65章を読むであろう。
-イザヤ65:21-23「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを他国人が食べることもない・・・彼らは無駄に労することなく、生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に主に祝福された者の一族となる」。
・彼の家庭もまた祝される。彼の妻は葡萄の木と呼ばれる。一本の葡萄の木から多くの蔓が生じ、その先には豊かな葡萄の房がなる。彼の妻は彼のために多くの子を生む。また子供たちはオリーブの若木のようにすくすくと育つ。
-詩篇128:3「妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木」。
・家族の充実、子孫の繁栄はこの上ない祝福だ。主を畏れる人はこのように仕事においても家庭においても祝福を受けると詩人は賛美する。
-詩篇128:4「見よ、主を畏れる人はこのように祝福される」。

2.祝福と呪いは紙一重

・この詩は都詣での歌に分類される。おそらくは家族挙げて過越祭にエルサレムに上京し、神殿に参拝し、そこで受けた祭司の祝祷がその基本形であろう。今家族が平安であるのは国が平安であるからだ。「民の幸いは国の幸いと一つだ」とイスラエルの人々は理解している。
-詩篇128:5-6「シオンから主があなたを祝福してくださるように。命のある限りエルサレムの繁栄を見、多くの子や孫を見るように。イスラエルに平和」。
・この祝祷はアロンの祈りを基本にしている。民数記にあるアロンの祈りは祝祷の原型である。
-民数記6:24-27「“主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように”。彼らが私の名をイスラエルの人々の上に置く時、私は彼らを祝福するであろう」。
・この詩の背景には応報思想がある。神を畏れる者には祝福が、神に逆らう者には呪いが与えられる。しかし、この応報思想は結末から祝福と呪いを見るために、病気や障害者への差別にもなる。イエスの弟子たちは生まれつき盲の人を見てそこに神の呪いを見たが、イエスはそれを否定される。
-ヨハネ9:1-3「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』。イエスはお答えになった『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。
・主を畏れる人が苦難に会い、主に従う人が貧困の中に置かれることもある。しかし主はそれらの人を放置されない。それ故に、貧しい人は主が共にいて下さるとの希望を持てる。だから「貧しい人々は幸い」なのだ。ルカ16章の貧しい人の名前ラザロはエリアザル(神救いたもう)の短縮形であることは象徴的だ。
-ルカ6:20-23「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる』」。

3.詩篇128編の黙想

・古代社会において、ダビデもソロモンも多くの妻を持ち、そのことによって家庭の平和が乱れた(ソロモンは多くの異母兄弟を殺して王座に就いた)。創世記原初史は「一人の夫と一人の妻から始まった人間社会が、二人の妻をめとるカインの末裔の時代を経て、神の子と呼ばれる者たちが思いのままに人間の娘をめとる洪水前夜の混乱に至る時代を語る」。その混乱の後に生まれたのが、「洪水を生き延びたノアの家族が一夫一妻であった」と明示する。そこに一夫多妻への批判があると月本昭男は語る(詩編の思想と信仰)。
・創世記2章は紀元前10世紀のダビデ・ソロモン時代に書かれた。当時の支配階級は一夫多妻で、ダビデもソロモンも多くの妻を持っていた。族長時代のアブラハムもヤコブも複数の妻を持っていた。共同体を継続させるために複数の妻を持つことが、家父長制社会では当たり前だった。その中で創世記2章の著者は、「人はその妻と向き合って家族を形成するのであり、一夫多妻は人間本来のあり方ではない」と批判している。当時の家父長制社会では女性は子を生むための道具と考えられ、子が生まれなければ別の女を娶っても良いとされていた。そのような風潮に対し、著者は「夫婦関係こそ社会の基本単位であって、離婚は創造の秩序を破るものだ」と主張している。
-創世記2:24「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」。
・「離婚は創造の秩序を破る」という考え方は傾聴に値する。今日離婚によってどれだけ多くの家庭が崩壊していることであろう(年間20万件の離婚があり、婚姻総件数の1/3になる)。離婚原因の多くは人間の欲望に起因する(不貞、暴力、金銭等)。私たちは原初史を丁寧に読む必要がある。
-創世記6:1-8「さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。主は言われた。『私の霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。』こうして、人の一生は百二十年となった・・・主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『私は人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。私はこれらを造ったことを後悔する。』しかし、ノアは主の好意を得た」。
・モーセの律法は離婚をやむを得ないものとして認める。
-申命記24:1「人が妻をめとり。その夫となってから、何か恥ずべきことを見出し、気にいらなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。
・当時は、夫が妻を嫌になればいつでも離縁することが出来た。しかしそれは間違っているとイエスは言われた。
-マタイ19:4-6「イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった』。そして、こうも言われた『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない』」。
・神は人を男と女に造られ、男女の交わりを通して命が継承されていくようにされた。その神の御心をあなた方はないがしろにして、「妻が年老いたので若い妻を娶りたい」とか、「他の女性の方が好ましくなったので離縁したい」とかいう人間の掟を作り上げている。それが神の御心ではないことは明らかだ。神が望んでおられることは、「二人が一体となって生きる」こと、「神の前に対等で平等な存在として生きる」ことだ。だから「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。留意すべきは、イエスが「離婚の絶対禁止」を言われているのではなく、「男の身勝手な行為によって経済的、社会的困窮に妻を追いやるような離婚は許されない」ことを示されたことだ。当時の女性は経済的には夫に頼って生きていたから、実際に夫に追い出され、路頭に迷う多くの妻たちをイエスは目にされ、「そのような勝手を神は許されない」とされた。現代のシングルマザーの貧困も同じであろう。彼女たちが社会的な構造(男性が稼ぎ、女性はそれを支える)の犠牲者であることを認識する必要がある。

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