江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年12月29日祈祷会(詩篇131編、現実が思うように行かない時)

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1.失望と落胆の中で主に出会う

 

・都詣での歌はいずれも短いが、巡礼者たちがそれぞれの思いを込めて歌ったものであり、意味は深い。詩篇131編も3節しかない短い詩であるが、彼の苦闘の人生の跡をたどることが可能である。本詩は捕囚帰還後の人々が思うようにいかない現実の中で、主に出会い、慰められた体験を歌ったものであろう。

-詩篇131:1「主よ、私の心は驕っていません。私の目は高くを見ていません。大き過ぎることを、私の及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」。

・捕囚から帰還した人々は、エルサレムに帰れば全ては良くなると期待していたが、現実は厳しく、幻想は打ち砕かれた。「驕る心と高くを見る目」、誰もが成功を夢見るが、誰もが成功するわけではない。帰国後の困難を、詩人は当初は神の約束違反と感じていたが、次第にそれは自分の罪の故であることを悟り、無力にされていった。

-イザヤ59:1-2「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」。

・無にさせられることを通して、詩人は自分が乳離れした嬰児のように、神に信頼する事ができるようになったと歌う。嬰児は乳離れさせられる時、乳を求めて泣き叫ぶ。しかしいつまでも母乳で育てるのは嬰児の発育に有害であり、ユダヤの母親は乳首に苦いものを塗って離乳を促したという。人は世に躓き、人に躓いて、自己の無力を知る。徹底して無力を知ればもはや焦燥もなく、苦慮もない。困難は私たちの乳離れのために与えられる。

-詩篇131:2(月本訳)「私はわが魂を鎮め、沈黙させたのです。わが魂は母の下で乳離れした子のよう、私の下で乳離れした子のようでした」。

 

2.心が無にされた者こそ神の国に入る

 

・詩人は自己の挫折経験を通して人々に語りかける「イスラエルの人々よ、あなた方は今苦難の中にある。そのことこそ主の恵みなのだ。思うように行かない時こそ乳離れの時であることを思い起こせ」。

-詩篇131:3「イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに」。

・私たちの中には高ぶる心、驕る思いがある。ルカ18章のパリサイ人は自分を誇った。私たちも自分を正しいとする時、自分を誇り、驕り高ぶる。それを知るために「思うようにいかない現実」が与えられる。

-ルカ18:11-12「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」。

・心の無一物なる者は他に頼るものがないから神に頼り、神に頼る者は神の国に入る。自分に依り頼み、力を振るい、功名を求める英雄や偉人は神の国に入れない。彼らは既にこの世で報いを受けている。神の国に入る者は「柔和な者、悲しむ者、心貧しき者」である。

-マタイ5:3-9「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」。

・都に入城する者は威風堂々と馬に乗って入城する。しかし、イエスが馬ではなくろばに乗って、エルサレムに入城されたことの意味を考えよ。

-マタイ21:2-5「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、私のところに引いて来なさい・・・それは預言者を通して言われていたことが実現するためであった『シオンの娘に告げよ。見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」。

 

 

3.詩篇131の黙想

 

・月本昭男は語る「詩篇131編は『婦人が歌った歌』とも解釈できる(乳離れした嬰児がその母のふところに安らかにあるように)。そうであれば、彼女は家庭を守り、子供を育てること以外の社会的な仕事などに関わることなく、進んで平凡な生き方を選んだのかもしれない。そうした日常生活の中に響く神の声は『かそけき声』であり、それを聞き分けるためには、人は心を静め、沈黙しなければならない。平凡な日常の中で、歌い手は『沈黙の対話』を神と交わした」(詩篇の思想と信仰から)。

・月本はまた語る「神の前に沈黙を守る」とは、すべてを神に委ねることだ。神に信頼して救いを待ち望むことだ。沈黙して待ち望むことに救いがある。

-哀歌3:28-33「くびきを負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。

・エレミヤの遺言も同じことを伝える。エレミヤは40年間預言者として立たされたが、常に苦難の中に置かれ、最後は強制的に連れて行かれたエジプトで客死する。彼の生涯の意味は何だったのか、どこに預言者としての報いがあったのかとさえ思える。しかしエレミヤはその弟子バルクに、「偉大なことをしようと思うな。与えられた勤めを果たせ」と遺言して死ぬ。

-エレミヤ45:1-5「バルクよ、イスラエルの神、主は、あなたについてこう言われる。あなたはかつてこう言った“ああ、災いだ。主は、私の苦しみに悲しみを加えられた。私は疲れ果てて呻き、安らぎを得ない”・・・主はこう言われる“私は建てたものを破壊し、植えたものを抜く。全世界をこのようにする。あなたは自分に何か大きなことを期待しているのか。そのような期待を抱いてはならない。なぜなら、私は生けるものすべてに災いをくだそうとしているからだ”と主は言われる。ただ、あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える』」。

・現代のエレミヤの遺言は、「病者の祈り」である。この祈りはニューヨークにある物理療法リハビリテーション研究所の受付の壁に掲げられている。この祈りは苦難の中から生まれた祈りである。挫折した者に目をかけられる神を求める歌である。「病者の祈り」においては、「癒されない」恵みが歌われている。

-病者の祈り「私は神に求めた、成功をつかむために強さを。私は弱くされた、謙虚に従うことを学ぶために。私は求めた、偉大なことができるように健康を。私は病気を与えられた、よりよきことをするために。私は求めた、幸福になるために富を。私は貧困を与えられた、知恵を得るために。私は求めた、世の賞賛を得るために力を。私は無力を与えられた、神が必要であることを知るために。私は求めた、人生を楽しむために全てのものを。私は命を与えられた、全てのものに楽しむために。求めたものはひとつも得られなかったが、願いはすべてかなえられた。神に背く私であるのに、言い表せない祈りが答えられた。私はだれよりも最も豊かに祝福されている」。

・十字架の悲しみは復活の喜びに変わる。瞬きの詩人水野源三は歌う「復活の喜びを知るためには、まず十字架の悲しみが必要なのだ」と。

-水野源三詩集から「三十三年前に脳性まひになった時には神様を恨みました。それがキリストの愛に触れるためだと知り、感謝と喜びに変りました」(水野源三詩集「こんな美しい朝に」から)。

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