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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年8月11日祈祷会(詩編114篇、主の御前で、地よ、踊れ)

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1.エジプトを出よ

 

・詩編114編は113編から始まるハレルヤ詩編の一つであり、過ぎ越しの祭に歌われた賛歌である。詩人は捕囚地バビロンから救いだされた喜びを、過去のエジプトからの救済の出来事を想起しながら歌っている。最初に出エジプトの意味が歌われる。イスラエルは神の民となるために異郷エジプトから救い出された。

-詩編114:1-2「イスラエルはエジプトを、ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り、ユダは神の聖なるもの、イスラエルは神が治められるものとなった」。

・3-4節に出エジプトの不思議な神の業、葦の海の奇跡とヨルダン川の奇跡が描かれる。主は葦の海に追い詰められたイスラエルを、海を開いて救われ、またヨルダン川を開いて約束の地への道を示された。

-詩編114:3-4「海は見て、逃げ去った。ヨルダンの流れは退いた。山々は雄羊のように、丘は群れの羊のように踊った」。

・「山々や丘が踊る」、古代人は雷鳴と火山の振動の中に神の息吹を見た。ギリシャ神話のゼウス、ローマ神話のジュピターはいずれも雷神である。詩人は自然現象を人格化して言う「海よ、なぜ逃げ去ったのか」、「川よ、なぜ退いたのか」と。海や川は怪物の住む所、その混沌の中から神は天地を造られたとイスラエルの人々は信じていた。

-詩編114:5-6「どうしたのか、海よ、逃げ去るとは、ヨルダンの流れよ、退くとは。山々よ、雄羊のように、丘よ、群れの羊のように踊るとは」。

・岩を叩くとそこから水が出て、荒野を旅するイスラエルは養われた。メリバの泉の奇跡(出エジプト記17章)である。

-詩編114:7-8「地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に、ヤコブの神の御前に。岩を水のみなぎるところとし、硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に」。

・7節「地よ、身もだえせよ」という個所を、月本昭男は「主の御前で、地よ、踊れ」と訳する。「自然は神の支配下にあり、民の救いを阻害しかねない海と河は恐れをなし、山と丘は歓喜した。自然もまた神の支配下にあることを詩編作者は賛美する。イザヤは第二の出エジプトであるバビロン捕囚からの解放を歌う。

-イザヤ55:12-13「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く。山と丘はあなたたちを迎え、歓声をあげて喜び歌い、野の木々も、手をたたく。茨に代わって糸杉が、おどろに代わってミルトスが生える。これは、主に対する記念となり、しるしとなる。それはとこしえに消し去られることがない」。

 

2.私たちの出エジプト

 

・エジプトからの解放の出来事こそイスラエル民族の誕生の原点であった。イスラエル人は出エジプトを通して、先祖の神ヤハウェこそ天地を支配される神であることを知った(申命記26章は最初の信仰告白とされる)。

-申命記26:5-9「私の先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこの私たちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。私たちが先祖の神、主に助けを求めると、主は私たちの声を聞き、私たちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもって私たちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました」。

・出エジプトの出来事をイスラエルは常に想起した。捕囚地バビロンからの解放を歌った第二イザヤも出エジプトを導かれた神が、私たちをバビロンから解放されると預言する。

-イザヤ43:16-20「主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方。戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方・・・見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている・・・私は荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥も私をあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、私の選んだ民に水を飲ませるからだ」。

・新約記者も出エジプトの出来事をイエスの出来事と重ねあわせて叙述する。マタイはイエスがヘロデの手を逃れてエジプトに行き、そこから帰国したことを新しい出エジプトと捉え(マタイ2:15「私はエジプトから私の子を呼び戻した」)、 ルカはイエスの十字架死をエクソダス(出エジプト)と呼んでいる。

-ルカ9:30-31「見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(エクソダス)について話していた」。

・出エジプトにおいてイスラエルは海沿いの道ではなく、荒野の道に導かれた。それは困難な道であったが、荒野でなければマナの奇跡もメリバの泉の出来事も経験しなかっただろう。

-申命記8:2-3「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。

・イスラエルは国を滅ぼされてバビロンに捕囚になった。その地で彼らは洪水やバベルの塔の物語に触れ、創世記の創造物語を書いた。苦難を通して初めて知る神の摂理がある。彼らはそれを見出した。国を滅ぼされた故に知る恵みがそこにはあった。

 

3.詩篇114編の黙想

 

・人は宗教に現世利益か現世離脱のどちらかを求める。現世利益は「信仰すれば治る」とか、「信仰すれば幸せになる」とかいう教えで、苦難の中にある人はわらをもつかむ思いですがる。しかし、信じても治らないし、苦しみは去らない。別の宗教は、この世を離れ、霊の世界との交流による救いを提唱する。聖書は「信じれば治る」とは言わないし、「この世を離れて修行しなさい」とも言わない。弟子たちに示されたのは、「イエスと共に行けば、あなたがたにも危険が及ぶだろうが、それでも行きなさい」ということだ。弟子たちには十字架の意味がまだわからないが、それでも彼らはイエスに従ってエルサレムに行く。

・現世利益も現世離脱も共に、苦しみからの解放を求める人間の作り出した幻想だ。幻想は破れる。そのような幻想に留まるのではなく、「現実を直視し、その現実から逃げるな」と聖書は教える。人は誰も十字架の道など歩きたくない。しかし、十字架を負って始めて知る人生の豊かさがある。河野進は、岡山ハンセン病療養所で50年間伝道した牧師だ。彼の書いた詩に「病まなければ」という詩がある。彼は50年間、ハンセン病の人に付き添い、その重い病の中に、神の祝福を見た。

-河野進「「病まなければ捧げ得ない悔い改めの祈りがあり、病まなければ聞き得ない救いのみ言葉があり、病まなければ負い得ない恵みの十字架があり、病まなければ信じ得ない癒しの奇跡があり、病まなければ受け得ないいたわりの愛があり、病まなければ近づき得ない清い聖壇があり、病まなければ仰ぎ得ない輝く御顔がある。おお、病まなければ、人間でさえあり得なかった」。

・私たちも重荷を負うことによって、人生が豊かにされていく。教会に来て、心が慰められ、清められたということだけに留まる人は、神に出会うことはないだろう。その清められた思い、強められた力を現実の生活の場で生かしていく時、神に出会う。日常の煩雑から逃れて山に登るとは、私たちにとっては、「主の日(日曜日)」に、世を離れて教会に来ることだ。教会に来て力をいただき、山を降りる=日常の現実に戻る。それぞれの場所で神の御心を問いながら暮す。

・パウロは言う「兄弟たち、自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)。礼拝は日曜日に始まり、月曜日から土曜日までの私たちの世の生活を支える。山に登るのは、地上の生活を生きるための力をいただくためだ。そして山を降り、十字架を再び負って歩いていく。そういう生き方をマタイ17章は私たちに示している。

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