江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年6月16日祈祷会(詩編106篇、歴史を導かれる神Ⅱ、イスラエルの不信仰)

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1.民の背信の歴史を振り返る

 

・詩編106編は105編の続きであるが、両詩編は対照的だ。105編は「主の驚くべき御業と奇跡を心に留めよ」(105:5)と歌うが、106編は6節以降「私たちは先祖と同じく罪を犯し、不正を行い、主に逆らった」(106:6)と罪を告白する。

-詩篇106:6「私たちは先祖と同じく罪を犯し、不正を行い、主に逆らった」。

・7節以下に8つの不信の罪が挙げられる。最初はエジプト軍に追跡され、その恐怖の中で主を呪った罪である(出エジプト14:11「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか」)。人は追いつめられると過去の恵みを忘れ、神を呪い始める。

-詩編106:7-12「私たちの先祖は、エジプトで驚くべき御業に目覚めず、豊かな慈しみに心を留めず、海辺で、葦の海のほとりで反抗した・・・葦の海は主に叱咤されて干上がり、彼らは荒れ野を行くように深い淵を通った。主は憎む者の手から彼らを救い、敵の手から贖われた・・・彼らは御言葉を信じ、賛美の歌をうたった」。

・二つ目の罪は、葦の海の救済にも関わらず(出エジプト記15:21「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた」)、荒野で水や食べ物がなくなると再びつぶやき始める不信の罪であった(民数記11:4-5「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない」)。

-詩編106:13-15「彼らはたちまち御業を忘れ去り、神の計らいを待たず、荒れ野で欲望を燃やし、砂漠で神を試みた。主はその願いをかなえられたが、彼らをやせ衰えさせられた」。

・第三の罪は主が立てられた指導者を信ぜず、仲間割れしたことだ(民数記16:3「共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか」)。

-詩編106:16-18「彼らは宿営でモーセを妬み、主の聖なる人アロンを妬んだ。地は口を開けてダタンを呑み込み、アビラムの仲間を覆った。火が彼らの仲間に向かって燃え上がり、炎が神に逆らう者を焼き尽くした」。

・第4の罪は見えない神に不安をいだき、金の子牛を作ってそれを拝んだ偶像礼拝の罪である(出エジプト記32:4「彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った」)。

-詩編106:19-20「彼らはホレブで子牛の像を造り、鋳た像に向かってひれ伏した。彼らは自分たちの栄光を、草をはむ牛の像と取り替えた」。

 

2.それでも捨てられない主への感謝

 

・24節以降は約束の地カナンへの入国をためらった罪だ。偵察の報告ではその地には強大な民がおり、人々は殺されることを怖れて約束の地への入国を拒絶し、ために40年間の荒野の放浪を招いた(民数記14:3「どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。エジプトに引き返した方がましだ」)。

-詩編106:24-26「彼らは愛すべき地を拒み、御言葉を信じなかった。それぞれの天幕でつぶやき、主の御声に聞き従わなかった。主は彼らに対して御手を上げ、荒れ野で彼らを倒された」。

・28節以下はバアル・ベオルでの偶像礼拝の罪、32節以下はメリバでの不信の罪が挙げられ、34節以下には約束の地に入っても彼らは背き続けたことが記されている。

-詩編106:34-38「主が命じられたにもかかわらず、彼らは諸国の民を滅ぼさず、諸国の民と混じり合い、その行いに倣い、その偶像に仕え、自分自身を罠に落とした。彼らは息子や娘を悪霊に対する生贄とし、無実な者の血を流した。カナンの偶像の生贄となった息子や娘の血はこの地を汚した」。

・絶え間ない背信を主は憤られ、イスラエルを滅ぼすことを決意される。その結果がバビロニアによる国土の破壊と民のバビロンへの追放だった。国の滅亡は「自分たちの主への背き」の故であったと詩人は告白する。

-詩編106:39-42「彼らは自分たちの行いによって汚れ、自分たちの業によって淫行に落ちた。主の怒りは民に向かって燃え上がり、御自分の嗣業の民を忌むべきものと見なし、彼らを諸国の民の手に渡された。彼らを憎む者らが彼らを支配し、敵が彼らを虐げ、その手によって彼らは征服された」。

・主は私たちを救おうと預言者を遣わされ、繰り返し警告されたが無駄であった。しかし主はそれでも私たちを見捨てず、捕囚の地でも共にいて下さった。国の滅亡を警告したエレミヤやエゼキエルは、滅亡後は回復の預言を行い、捕囚地に立てられた第二イザヤは捕囚の終りと帰国を伝えた。

-詩編106:43-46「主は幾度も彼らを助け出そうとされたが、彼らは反抗し、思うままにふるまい、自分たちの罪によって堕落した。主はなお、災いにある彼らを顧み、その叫びを聞き、彼らに対する契約を思い起こし、豊かな慈しみに従って思いなおし、彼らをとりこにしたすべての者が、彼らを憐れむように計らわれた」。

・その彼らが主に救われて、再び約束の地に戻された。詩人は最後に祈る「私たちはエルサレムに戻ることが出来ました。しかしまだ多くの同胞が流浪の民として各地に散らされています。主よ、彼らを集めて下さい」と。

-詩編106:47「私たちの神、主よ、私たちを救い、諸国の中から私たちを集めてください。聖なる御名に感謝をささげ、あなたを賛美し、ほめたたえさせてください」。

 

3.詩篇106編の黙想~離散の意味

 

・イスラエルの民はバビロン捕囚を契機に、離散の民とされた(ディアスポラ)。バビロンへの捕囚は異教祭儀に対する主の怒りと民は受け入れた。

-列王記下21:11-15「ユダの王マナセはこれらの忌むべき事を行い、かつてアモリ人の行ったすべての事より、更に悪い事を行い、その偶像によってユダにまで罪を犯させた。それゆえ、イスラエルの神、主はこう言われる。見よ、私はエルサレムとユダに災いをもたらす・・・私はサマリアに使った測り縄とアハブの家に使った下げ振りをエルサレムに用いる・・・私はエルサレムをぬぐい去る。私はわが嗣業の残りの者を見捨て、敵の手に渡す。彼らはそのすべての敵の餌食となり、略奪の的となる。彼らは先祖がエジプトを出た日から今日に至るまで私の意に背くことを行い、私を怒らせてきたからである」。

・捕囚地の預言者エゼキエルは民の罪がこの捕囚を招いたと宣言した。

-エゼキエル20:27-31「主なる神はこう言われる。お前たちの父祖は、私に対して裏切りを行い、またもや、私を冒涜した。私が与えると誓ったその地に彼らを導き入れた時、彼らは高い丘や茂った木を見ると、どこででも、生贄をささげ、私を怒らせる供え物を捧げた。彼らはまた、そこで宥めの香りをたき、ぶどう酒の献げ物を注ぎかけた・・・イスラエルの家に言いなさい。お前たちは父祖の歩みに従って自らを汚し、彼らの憎むべき偶像と姦淫を行ってきた。また、自分の子供を献げ物として火の中を通らせ、すべての偶像によって今日に至るまで自らを汚している。それなのに、イスラエルの家よ、私はお前たちの求めに応じられようか。私は生きている、と主なる神は言われる。私は決してお前たちの求めには応じない」。

・それにもかかわらず、主はイスラエルを赦し、再び、約束の地への帰還を約束された。第二イザヤはバビロンからの解放を歌う。

-イザヤ40:1-2「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」。

・イスラエルは何度も国を滅ぼされ、民は離散して行った。しかし歴史を振り返れば、この離散も神の恵みであった。使徒言行録によれば、パウロやバルナバはローマ帝国の各地に立てられたシナゴークを足がかりとして伝道した。ユダヤは外国勢力により何度も国が滅ぼされ、その度に多くの人々が離散していった。その結果、ディアスポラと呼ばれる放浪ユダヤ人が生まれ、彼らは逃れた帝国各地に居住区を造って住み、シナゴークと呼ばれる会堂を中心に信仰生活を守った。離散ユダヤ人たちは当時の共通語であったギリシア語を話し、旧約聖書もギリシア語に訳され(70人訳聖書)、異邦人も聖書を通してシナゴークに集められる。

・帝国各地のシナゴークにギリシア語聖書を読み、安息日ごとに礼拝する人々の群れが置かれ、パウロやバルナバの伝道はこのシナゴークを基点として為された。歴史的に見れば、イスラエルは戦争に負けて国を失い、ある者は捕囚され、別の者は遠いアジアやヨーロッパまで流れていった。民族の悲劇である。しかし、神の眼から見れば、パウロが伝道を始めた時、既に世界中にシナゴークのネットワークが張られ、福音はそのネットワークを通じて広がっていった。人間の目には悲劇と思える出来事も、神はそれを良い目的のために用いられる。そこに神の摂理があるのではないか。

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