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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年12月22日祈祷会(詩篇130編、深き淵から)

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1.罪の赦しを求める悔い改めの祈り

 

・詩篇130編は罪の赦しを求める悔い改めの祈りだ。詩は自分が深い淵(罪の縄目、絶望のどん底)にいてあえぐ詩人の、主を求める祈りで始まる。

-詩篇130:1-2「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈る私の声に耳を傾けてください」。

・詩人は自ら犯した罪のために処罰され、その赦しを神に求めている。ダビデが犯した罪の赦しを求めた詩篇51編と共通する(ダビデは部下ウリヤの妻に恋慕し、夫ウリヤを殺して、彼女を自分のものにした)。

-詩篇51:1-9「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来た時。神よ、私を憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。私の咎をことごとく洗い、罪から清めてください。あなたに背いたことを私は知っています。私の罪は常に私の前に置かれています・・・ヒソプの枝で私の罪を払ってください。私が清くなるように。私を洗ってください、雪よりも白くなるように」。

・詩篇130編はグレゴリアン聖歌となって教会のミサで歌われ、それを聞いたジョン・ウェスレーに回心を迫った歌としても有名である。新生讃美歌432番「深き悩みの淵の底で」は詩編130編を歌う。

-グレゴリアン聖歌De profundis「主よ、われ深き淵より、おん身に叫びまつれり。主よ、願わくはわが声を聞き給え」。

・人は追い詰められ、出口の見えない深い淵にまで落ち込まないと自分の罪が見えない。「もうだめだ。もう終わりだ」、その極限に追いつめられて人は主を求め、叫ぶ。この体験をした者は絶望の淵にあってもなおも希望を持つ。なぜなら神は「罪に目を留める」方ではなく、「憐れまれる」方であることを知る故だ。

-詩篇130:3-4「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」。

・ルカ福音書が記す放蕩息子のたとえ話で、息子が悔い改めたのは、彼が食べるものもなくなり、餓死するしかない所まで追い詰められた時だった。

-ルカ15:16-19「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。“お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください”と』」。

・そして父なる神を求めた時、そこには罪と責任を追求する神ではなく、無条件に赦す神を見出した。

-ルカ15:22-24「父親は僕たちに言った『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』。そして、祝宴を始めた」。

 

2.罪の赦しを感謝する祈り

 

・5節から後半に入り、救いを求める祈りが続く。城塞を守る哨兵が彼の義務が解かれる朝を待ち望むように、詩人は絶望の闇が明け、救いの朝が来る時を待ち望む。

-詩篇130:5-6「私は主に望みをおき、私の魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。私の魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして」。

・その希望は夜の闇がどのように深くても、やがて朝が来ることを知る体験から来る。その時、どのような状況であれ、私たちは希望を持ち続けることが出来る。それが聖書の信仰だ。

-ローマ13:11-12「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」。

・しかし福音(良き訪れ)を聞いたことのない人は待つことが出来ず、苦難の中で自らの命を断つ。だから私たちは福音を伝えなければいけない。どのような闇の中にあっても朝は来る。闇が深いほど夜明けは近いと。

-新生讃美歌560番(闇は深まり・ヨッヘン・クレッパー作詞)「闇は深まり、夜明けは近し。あけの明星、輝くを見よ。夜ごとに嘆き、悲しむ者に、喜びを告ぐる、朝は近し。おさな子となり、僕となりて、御神みずからこの世に降る。重荷負うもの、かしらを上げよ。信ずるものはみな、救いを受けん」。

・130編は前半の個人の救済の祈りがやがて民族の救済の祈りへとなっていく。この詩の年代はネヘミヤ時代と推測されている。当時イスラエルはペルシャの支配下にあり、苦闘していた。個人の救いは共同体の救いと分離できない。救いを求めて教会に来ても、教会の中に諍いがある時、人は救われない。教会はそのことを深く知るべきだ。

-詩篇130:7-8「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルをすべての罪から贖ってくださる」。

・人は希望がある限り、待つことが出来る。希望の根拠は神の言葉である。

-イザヤ54:7-8「わずかの間、私はあなたを捨てたが、深い憐れみをもって私はあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむとあなたを贖う主は言われる」。

 

3.詩篇130編の黙想

 

・「罰する神ではなく、赦される神との出会いが宗教改革を生み、その重要なテキストになったのが詩篇130編だ」と立川福音自由教会・高橋秀典牧師は語る(2020.4.4)。

-「詩篇130編はプロテスタント宗教改革の原点とも言えるもので、マルティン・ルターはこのみことばをもとに「深き悩みより」という讃美歌を記し、そこから多くのオルガン音楽も生まれています。ルターはこの詩篇を信仰義認の教理の最重要テキストの一つと見ていました。ルターはカトリックの修道院生活の中で、「神はどんな小さな罪も見逃さない厳しいお方で、神のあわれみを受けることができるために徹底的な服従の生活を全うしなければならない」と、恐怖に震えていました。しかし、この詩篇に描かれている神は、私たちが自分の罪に悩みながら、主の憐れみを求める時、「不義に目を留める」代わりに、豊かに「赦してくださる」方であると記されています」。

-「中世の神学では、しばしば、「神の義」は、どんな小さな罪をも見逃すことができない厳しい基準で、何の罪もないイエス・キリストが初めてその神の義の基準を満足させることができたと説明されていました。そのうちにイエスの十字架の苦難に倣って初めて、イエスが獲得された豊かな義を受けさせていただけると教えられ、イエスでさえも恐怖の対象になり、イエスの母マリアにすがるしかなくなって行きました」。

-「しかし、ルターはこの詩篇を思い巡らしながら、イエスの十字架は何よりも、神の側から私たちの罪を赦し、私たちとの「和解」を望んでおられることとしるしであると理解できました。私たちに求められることは、神の義の基準に達するために善い行いに励む代わりに、私たちをそのままで赦し、神の子として受け入れたいと願っておられる神の圧倒的な恵みに自分の身を差し出すことだけだったのです」。

・主の憐れみを知った人は「主よ、私たちを憐れみたまえ」と祈る。1961年に事故死した前国連事務総長ダグ・ハマーショルドの祈りは有名だ。

-ダグ・ハマーショルドの祈り「私たちを憐みたまえ。私たちの努力を憐みたまえ。私たちが愛と信仰とにみち、正義を尊び、へりくだって、御前にいて、己を律し、忠実を守り、勇気をもって、御身の跡についていけますよう、そして私たちが、静寂のうちに御身に出会えますように。御姿が見えますように、清い心を与えたまえ。御声が聞こえますように、貧しい心を与えたまえ。お仕えさせていただけますように、愛する心を与えたまえ。御身のうちに生きられますように、信ずる心を与えたまえ。御身よ、私は御身を知りませぬが、しかも御身のものでございます。御身よ、私には御心が測れませぬが、しかも御身は私をば、私の運命へとお捧げになられました。御身よ」。

・イギリスの作家オスカー・ワイルドは、同性愛のために投獄され、獄中で福音書を読み、イエスに出会う。彼はその獄中記を「深き淵よりの叫び」として発表した。

-ワイルド・深き淵より「悲哀のあるところには聖地がある。…それを悟らないかぎり、人生については全く何事も知ることができない」。

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