1.信仰者の嘆きと祈り
・詩編69篇は不当な苦しみに直面させられた信仰者の嘆きと祈りの歌である。69篇は22篇と並んで新約聖書への引用が多く、初代教会の人々は、この詩の中に不当な苦しみを負わされたメシア=イエスの面影を見た。詩は最初に、「神よ、救って下さい」という嘆願の祈りから始まる。
-詩編69:1-5「神よ、私を救って下さい。大水が喉元に達しました。私は深い沼にはまり込み、足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み、奔流が私を押し流します。叫び続けて疲れ、喉は涸れ、私の神を待ち望むあまり、目は衰えてしまいました。理由もなく私を憎む者は、この頭の髪よりも数多く、いわれなく私に敵意を抱く者、滅ぼそうとする者は力を増して行きます。私は自分が奪わなかったものすら、償わねばなりません」。
・祝福されていた人生が急に激流に飲み込まれたように暗転し、理由もなく攻撃される。このような不条理はこの世にある。ヨブの苦しみがそうだ。幸せの絶頂の中で、次から次に試練が与えられる。彼の妻は語る「神を呪って死になさい」と。しかしヨブは語る「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と。しかしこれは建前で、ヨブはやがて崩れ、3章以下では神を呪い始める。
-ヨブ記2:7-10「サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。彼の妻は、『どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう』と言ったが、ヨブは答えた。『お前まで愚かなことを言うのか。私たちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか』」。
・詩篇69編の作者は自分の罪を知る。それ故に苦しみを当然と受け止める。しかし「何故これほどまでに苦しめられるのか」と彼は訴える。
-詩編69:6-7「神よ、私の愚かさは、よくご存じです。罪過もあなたには隠れもないことです。万軍の主、私の神よ、あなたに望みをおく人々が私を恥としませんように・・・あなたを求める人々が私を屈辱としませんように」。
・詩人は周囲の人から「神に見捨てられ、呪われた者」として、排斥されている。らい病を発病し、忌み嫌われたのだろうか。彼が神殿で、断食し、悲嘆の粗布をまとっても、人々は同情することなく、逆に嘲る。
-詩編69:8-12「私はあなたゆえに嘲られ、顔は屈辱に覆われています。兄弟は私を呪われた者とし・・・私を異邦人とします。あなたの神殿に対する熱情が私を食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りが私の上にふりかかっています。私が断食して泣けばそうするからといって嘲られ、粗布を衣とすればそれも私への嘲りの歌になります」。
・ヨハネ福音書はイエスの神殿清めの記事の中に、詩編69:10「あなたの神殿に対する熱情」を引用する。イエスの十字架刑をヨハネは、「神殿に対する熱心が神殿清めを招き、その結果、祭司たちの反感を引き起こした」と理解する。イエスの十字架刑の主たる告訴理由は「神殿冒とく罪」であった。
-ヨハネ2:15-17「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた『このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない』。弟子たちは『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」。
2.孤立無援の中で詩人は神に救いを求める
・孤立する詩人は神に救いを求める。神なき人は社会から拒絶された時にはもう行くべき場所はないが、信仰者は世から捨てられても、神に祈り求めることができる。
-詩編69:14-16「あなたに向かって私は祈ります。主よ、御旨にかなう時に、神よ、豊かな慈しみのゆえに、私に答えて確かな救いをお与え下さい。泥沼にはまり込んだままにならないように私を助け出して下さい。私を憎む者から大水の深い底から助け出して下さい。奔流が私を押し流すことのないように、深い沼が私をひと呑みにしないように、井戸が私の上に口を閉ざさないように」。
・恵みと慈しみと憐れみに富む神は、苦しむ者を放置されることはないという信仰が詩人を支えている。
-詩編69:17-18「恵みと慈しみの主よ、私に答えてください。憐れみ深い主よ、御顔を私に向けて下さい。あなたの僕に御顔を隠すことなく、苦しむ私に急いで答えて下さい」。
・詩人はかって祖先をエジプトから贖って下さった神は、今また自分を贖って下さると信じ、祈る。「主よ、あなたは私の苦しみをご存知です」と彼は祈る。
-詩編69:19-22「私の魂に近づき、贖い、敵から解放してください。私が受けている嘲りを、恥を、屈辱を、あなたはご存じです・・・嘲りに心を打ち砕かれ、私は無力になりました。望んでいた同情は得られず、慰めてくれる人も見いだせません。人は私に苦いものを食べさせようとし、渇く私に酢を飲ませようとします」。
・マルコは詩人の苦しみの中に、十字架であえぐイエスの姿を見た。詩篇69:22「人は私に苦いものを食べさせようとし、渇く私に酢を飲ませようとします」はマルコ福音書の十字架刑の場面に引用されている。
-マルコ15:36「ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け・・・イエスに飲ませようとした」。
・詩人は「嘲りと辱め」の中にあり、神に「打たれ、刺し貫かれている」。全身を皮膚病に冒されたヨブのような苦しみを詩人は苦しんでいる。こうして彼の心は次第に、彼を嘲り、辱める者たちに対する神の処罰を願う祈りに変わっていく。しかし、単なる報復の祈りではない。敵は彼が「神に打たれ、呪われた」と信じる故に、彼を責める。しかし、慈愛の神は苦しむ者たちを嘲りと罵りの中に見捨てられる方ではない。それを示して下さいとの祈りだ。
-詩編69:23-29「彼らの食卓が彼ら自身に罠となり、仲間には落とし穴となりますように。彼らの目を暗くして見ることができないようにし、腰は絶えず震えるようにして下さい。あなたの憤りを彼らに注ぎ、激しい怒りで圧倒して下さい・・・あなたに打たれた人を彼らはなおも迫害し、あなたに刺し貫かれた人の痛みを話の種にします。彼らの悪には悪をもって報い、恵みの御業に彼らを決してあずからせないで下さい。命の書から彼らを抹殺して下さい。あなたに従う人々に並べて、そこに書き記さないで下さい」。
3.最後に詩編は神への賛美に変わっていく
・恨み悲しむ詩人の祈りが、最後は賛美と変わっていく。神は苦しむ者を見捨てられることなく、恵みと慈しみを下さる方だとの信仰が、詩編を悲しみと恨みから賛美へと変えて行く。
-詩編69:30-34「私は卑しめられ、苦痛の中にあります。神よ、私を高く上げ、救ってください。神の御名を賛美して私は歌い、御名を告白して、神をあがめます。それは雄牛の生贄よりも、角をもち、ひづめの割れた牛よりもなお主に喜ばれることでしょう。貧しい人よ、これを見て喜び祝え。神を求める人々には健やかな命が与えられますように。主は乏しい人々に耳を傾けて下さいます。主の民の捕われ人らを決しておろそかにはされないでしょう」。
・「主は乏しい人々に耳を傾けて下さいます」、この信仰はイザヤに継承され、イエスも継承された。
-イザヤ61:1「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」。
-ルカ4:16-19「イエスは・・・聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると・・・ある個所が目に留まった。『主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである』」。
・最後に詩人は天地を創造され、支配しておられる神を賛美する。主はシオンを再建され、ユダの町々を再建して下さるであろう。この詩はバビロン捕囚から帰国した時代に書かれたものであろう。
-詩編69:35-37「天よ地よ、主を賛美せよ、海も、その中にうごめくものもすべて。神は必ずシオンを救い、ユダの町々を再建してくださる。彼らはその地に住み、その地を継ぐ。主の僕らの子孫はそこを嗣業とし、御名を愛する人々はその地に住み着く」。
・第二次世界大戦中、英国人将校アーネスト・ゴードンは日本軍の捕虜となり、死の鉄道の建設に酷使された「私たちは家族から捨てられ、友人から捨てられ、自国の政府から捨てられ、そして今、神すら私たちを捨てて離れていった」。彼は収容所生活の中で死の病にかかり、人生を呪いながら命が終わる日を待っていた。そこに、キリスト者の友人たちが訪れ、食物を食べさせ、足の包帯を替え、体を拭いてくれた。友の看護によって体力を回復した彼は、助け手の信仰に触れて聖書を読み始め、「生きて働いておられる神」を見出す。「神は私たちを捨てていなかった。神は私たちと共におられた」。彼は奉仕団を結成して病人の介護を行い、聖書を共に読み、広場で礼拝を始める。無気力だった収容所の仲間たちから笑い声が聞こえ、祈祷会が開かれようになり、収容所に賛美の歌声が聞こえてくるようになった。彼はその時、思う「エルサレムとは、神の国とは結局、ここの収容所のことではないか」(「死の谷を過ぎて~クワイ河収容所」より)