1.国土回復の挫折と敗戦
・詩編60篇の表題は「ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取った時」とする。ダビデ王がエドムを占領した時の記事である。
-サムエル記下8:13-14「ダビデはアラムを討って帰る途中、塩の谷でエドム人一万八千を討ち殺し、名声を得た。彼はエドムに守備隊を置くことにした。守備隊はエドム全土に置かれ、全エドムはダビデに隷属した」。
・しかし詩編60篇はイスラエルが敗戦下にある状況を示すので、表題は的外れであろう。聖書学者たちは王国末期、ヨシヤ王の改革が挫折し、かつての植民地であったエドムとの戦いに敗れた状況が描かれているとする。ヨシヤ王はダビデ王国時代の領土回復を目指して改革を進めたが、エジプトとの戦いで負傷し、戦死する。
-歴代誌下35:20-24「ヨシヤが神殿を整えるために行ったこれらのすべての事の後、エジプトの王ネコがユーフラテス川の近くのカルケミシュを攻めようとして上って来た。ヨシヤはこれを迎え撃つために出陣した・・・彼はメギド平野の戦いに臨んだ。射手たちがヨシヤ王を射た。王が家臣たちに、『傷は重い。私を運び出してくれ』と言ったので、家臣たちは王を戦車から降ろし、王の第二の車に乗せてエルサレムに連れ帰った。王は死んで、先祖の墓に葬られた。ユダとエルサレムのすべての人々がヨシヤの死を嘆いた」。
・ヨシヤ死後、ユダ王国はエジプトの支配下に置かれ、かつての植民地であったエドムの反乱も抑えられず、敗戦する。
-詩編60:11-12「包囲された町に誰が私を導いてくれるのか。エドムに、誰が私を先導してくれるのか。神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは我らと共に出陣してくださらないのか」。
・国の将来に不安を感じた民は救済を主に祈る。
-詩編60:3-4「神よ、あなたは我らを突き放し、怒って我らを散らされた。どうか我らを立ち帰らせてください。あなたは大地を揺るがせ、打ち砕かれた。どうか砕かれたところを癒してください、大地は動揺しています」。
・国の衰退、滅亡の予感の中で、人々は神が怒りを収め、その民を救済されるよう祈る。
-詩編60:5-7「あなたは御自分の民に辛苦を思い知らせ、よろめき倒れるほど、辛苦の酒を飲ませられた。あなたを畏れる人に対してそれを警告とし、真理を前にしてその警告を受け入れるようにされた。あなたの愛する人々が助け出されるように、右の御手でお救いください。それを我らへの答えとしてください」。
・人々はかつての領土を回復するとの約束を守ってくれるよう、神に求める。ヨシヤ王は失われた北イスラエルの領土を回復し、周辺のモアブ、エドム、ペリシテも併合して、ダビデ王時代の領土と栄光を回復しようとしたが、その業は挫折した。
-詩編60:8-10「神は聖所から宣言された『私は喜び勇んでシケムを分配しよう。スコトの野を測量しよう。ギレアドは私のもの、マナセも私のもの、エフライムは私の頭の兜、ユダは私の采配、モアブは私のたらい。エドムに私の履物を投げ、ペリシテに私の叫びを響かせよう』」。
2.人間による救いは虚しい
・ヨシヤ死後、ユダ王国は加速度的に滅びの道をたどり、やがてバビロニア軍の侵略により滅ぶ。その時、かつてはユダの植民地であったエドムはユダに攻め入った。エドムは死海南部の砂漠の国であり、ヤコブ(イスラエル)の兄弟エソウが住んだ兄弟国であった。その兄弟国エドムが混乱に乗じてユダに侵略し、人々の財宝を奪い、逃れる者を殺し、敵に引渡した。ユダの人びとは報復を誓う。
-詩篇137:7「主よ、覚えていてください、エドムの子らを、エルサレムのあの日を、彼らがこう言ったのを『裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで』」。
・イザヤはエドムの民に対する報復を宣言する。
-イザヤ34:5-6「天において、わが剣は血に浸されている。見よ、剣はエドムの上に下る、絶滅に定められた民を裁くために。まことに、主の剣は血にまみれ、脂肪を滴らす。小羊と雄山羊の血にまみれ、雄羊の腎臓の脂肪を滴らす。主がボツラで生贄を屠り、エドムの地で大いなる殺戮をなさるからだ」。
・戦乱の中で詩人は思う「人間の与える救いは虚しい」。エジプトに頼っても、アッシリアに頼ってもすべては空しい。敗戦の混乱の中で詩人は神こそ救いであることを改めて思う。
-詩編60:13-14「どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます」。
・預言者たちは繰り返し、神以外に救いはないと述べて来た。ホセアはエジプトやアッシリアに迎合する北イスラエル王国の政策を糾弾した。
-ホセア7:10-11「イスラエル・・・は神なる主に帰らず、これらすべてのことがあっても主を尋ね求めようとしない。エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求め、あるいは、アッシリアに頼って行く」。
・イザヤはバビロニヤに対抗するためにエジプトの軍備に頼ろうとするユダ王国の為政者を戒めた。
-イザヤ31:1-3「災いだ、助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りと(するが)・・・エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる」。
・しかし人は世の力に頼る。預言者に耳を傾けずエジプトに頼った北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ(前721年)、エジプトに援軍を求めてバビロニヤに反旗を翻した南ユダも滅ぼされた(前587年)。王国の滅亡からバビロン捕囚期に至る時代こそ、民が「人間による救い」の挫折を経験した時代であった。「人間による救い」が断たれた所から、「神による救い」が始まる。捕囚の民が聞いた声はその神の救済計画だった。
-イザヤ43:1-6「ヤコブよ、あなたを創造された主は・・・今、こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う・・・私は東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める。北に向かっては、行かせよ、と南に向かっては、引き止めるな、と言う。私の息子たちを遠くから、娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う」。
3.詩篇60編の黙想
・人間は民族の枠を超えることが出来ない。丸木夫妻の描く原爆図「からす」では、長崎の被爆地において日本人遺体が処理された後、徴用されて犠牲になった朝鮮人被爆者遺体は放置され、からすがそれをついばむ絵が記されている。人は屍さえも差別する。詩篇137編では捕囚地でバビロン人の幼子の頭を岩に砕く報復が歌われる。
-詩篇137:1-9「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、私たちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。私たちを捕囚にした民が歌をうたえと言うから・・・どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で・・・娘バビロンよ、破壊者よ、いかに幸いなことか、お前が私たちにした仕打ちをお前に仕返す者、お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」。
・人間は罪を犯し続け、それを神の前にさえ隠す存在だ。プレスリーの歌う「夕べの祈り」は印象的だ。
-An Evening Prayer「If I have wounded any soul today If I have caused one foot to go If I have lost in my own misery Dear lord forgive Forgive a sin I have confessed to thee Forgive my secret sins I do Oh God watch over me and my misery Dear lord, help me」
-訳詞「もし,私が今日誰かの心を傷つけたなら、もし私が一歩、つまずきの原因となったなら、もし、私が惨めさの中に,自分を見失ったなら、愛する神よ、お許し下さい。あなたに打ち明けた罪と、あなたにも隠した秘密の罪とを、どうか許して下さい」(神に告白した罪は単数形、隠した罪は複数形であることに留意せよ)。
・神は自らを犠牲にして罪の贖いを引き受けて下さった。一人子イエスが十字架で死なれた。そのことを知る時、民族を超える共生を人は知る。すべての民族は神の子なのだから。
-第一ペテロ2:23-24「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。