江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年1月14日祈祷会(詩編35編、予期しない艱難に襲われた時)

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1.予期しない艱難に襲われた時、人はどうするのか

 

・人はしばしば予期しない艱難に直面させられる。災害であったり、病気であったり、裏切りであったり、事業の失敗であったりする。その時、人がまず問うのはその不条理さだ。「何故私に」、「何も悪いことをしていないのに」、「正直に生きてきたのに」、と人は思う。詩編35編の作者も艱難の不当さを主に訴える。

-詩編35:1-3「主よ、私と争う者と争い、私と戦う者と戦って下さい。大盾と盾を取り、立ち上がって私を助けて下さい。私に追い迫る者の前に、槍を構えて立ちふさがって下さい。どうか、私の魂に言って下さい『お前を救おう』と」。

・人は艱難をもたらした原因や相手を呪い、相手の破滅、死をさえ願う。

-詩編35:4-6「私の命を奪おうとする者は、恥に落とされ、嘲りを受けますように。私に災いを謀る者は、辱めを受けて退きますように。風に飛ぶもみ殻となった彼らが、主の使いに追い払われますように。道を暗闇に閉ざされ、足を滑らせる彼らに、主の使いが追い迫りますように」。

・信仰者でさえ相手の破滅を願う。人は敵を愛することはできない存在なのだ。

-詩編35:7-8「彼らは無実な私を滅ぼそうと網を張り、私の魂を滅ぼそうと落とし穴を掘りました。どうか、思わぬ時に破滅が臨み、彼らが自ら張った網に掛かり、破滅に落ちますように」。

・信仰者は救済を神に願うが、自分の手で敵に報復しない。その時に、心の目が開き、主が共におられることを知り、感謝と讃美の歌が生まれる。このようにして、信仰者は艱難の中でも主を讃美することができる。

-詩編35:9-10「私の魂は主によって喜び躍り、御救いを喜び楽しみます。私の骨はことごとく叫びます『主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から、貧しく乏しい人を搾取する者から、助け出して下さいます』」。

・パウロとシラスはフィリピの牢獄に監禁されていたが、牢獄で讃美の歌を歌うと、地震が起こり、パウロたちは救済され、牢獄の看守はそれを見て信仰の道に入った。逆境の中での讃美が洗礼者を生んだ。

-使徒16:24-33「看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌を歌って神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。『自害してはいけない。私たちは皆ここにいる』・・・そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた」。

 

2.知人から裏切られ、虚偽の訴えに苦しめられた時

 

・人は敵への憎しみを消すことはできない。これまで愛し、心を配ってきた人が裏切った、その人が無実の私をわなに陥れた。赦せない。彼は憤る、信仰者もまた同じように、恨み、怒り、憤る。

-詩編35:11-15「不法の証人が数多く立ち、私を追及しますが、私の知らないことばかりです。彼らは私の善意に悪意をもってこたえます・・・彼らが病にかかっていた時、私は粗布をまとって断食し・・・胸の内に祈りを繰り返し、彼らの友、彼らの兄弟となり、母の死を悼む子のように嘆きの衣をまとい、うなだれて行き来したのに、私が倒れれば彼らは喜び、押し寄せます。私に向かって押し寄せ、私の知らないことについて私を打ち、とめどもなく引き裂きます」。

・人は自分の好意が報われないと怒り出す。彼の好意は見返りを求めていたからだ。無償の愛は私たちの内にはない。人は敵からの救済を神に祈るが、そこに含まれるものは自分を陥れる者への恨みだ。

-詩編35:17-20「主よ、いつまで見ておられるのですか。彼らの謀る破滅から、私の魂を取り返してください。多くの若い獅子から私の身を救ってください。優れた会衆の中であなたに感謝をささげ、偉大な民の中であなたを賛美できますように。敵が不当に喜ぶことがありませんように。無実な私を憎む者が、侮りの目で見ることがありませんように。彼らは平和を語ることなく、この地の穏やかな人々を欺こうとしています」。

・敵は見てもいないのに「見た」と偽証し、私を破滅に追い込めようとする。「主よ、どうかあなたが裁いて下さい。真実を示してください」と詩人は祈る。

-詩編35:21-23「私に向かえば、大口を開けて嘲笑い、『この目で見た』と言います。主よ、あなたは御覧になっています。沈黙なさらないでください。私の主よ、遠く離れないでください。私の神、私の主よ、目を覚まし、起き上がり、私のために裁きに臨み、私に代わって争ってください」。

・彼は自分が敵を呪わざるを得ない存在であり、神の前に罪なしとして立てない存在であることを知る。だから彼は「主を讃美できますように、相手と同じ罪に陥ることがありませんように」と祈る。

-詩編35:27-28「私が正しいとされることを望む人々が、喜び歌い、喜び祝い、絶えることなく唱えますように、『主をあがめよ、御自分の僕の平和を望む方を』と。私の舌があなたの正しさを歌い、絶えることなくあなたを賛美しますように」。

・この詩を読んで内村鑑三「基督信徒の慰め」を思い出した。内村は明治24年の不敬事件で、教職を追われ、最愛の妻と死別し、教会からの追放など試練が次々に襲う。彼は言う「今やこの頼みに頼みし国人に捨てられて、余は帰るに故山なく、求むるに朋友なきに至れり、天の下には身を隠すに家なく、他人に顔を会し得ず、孤独淋しさ言わん方なきに至れり」(「基督信徒の慰め」より)。彼はそこから出発し、無教会主義を唱え、日露戦争では非戦を唱える。「戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない」(万朝報記事より)。戦時中にこの発言ができる彼の強さは、試練を乗り越えたところから来る。艱難は人を育てるのだ。

 

3.詩篇35編の黙想「自分の手で敵に報復しない」

 

・「自分の手で敵に報復しない」とは、神に報復を委ねることだ。パウロの時代、教会は迫害の中にあった。教会員の中には復讐を誓う者もいた。彼らに対してパウロは言う「復讐するな。相手の不義は神の裁きに任せよ。キリストも復讐されなかったではないか。悪に負けることなく、善をもって悪に勝て」と。

-ローマ12:19-21「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる』と書いてあります。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。

・2001年9月11日に無差別テロがアメリカを襲い、NY貿易センタービルが破壊され、2973人が殺された。アメリカ大統領G.ブッシュは「テロとの戦い」を宣言し、アメリカ国内では「仕返しと報復を立法化せよ」と要求する怒りの声が巻き起こり、町には星条旗があふれ、「アメリカに忠誠を誓わない者はアメリカの敵だ」との大統領声明が出された。その中で教会は「復讐するな」と祈った。

-グランド・ゼロからの祈り「復讐を求める合唱の中で、『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』と促されたイエスの御言葉に聞くことが出来ますように。キリストは全ての人のために贖いとして御自身を捧げられました。キリストはアフガニスタンの子供や女や男のために死なれました。神はアフガニスタンの人々が空爆で死ぬことを望んでおられません。国は間違っています。神様、為政者のこの悪を善に変えて下さい」(「グランド・ゼロからの祈り」、ジェームズ・マグロー、日本キリスト教団出版局)。

・曽野綾子の小説「燃えさかる薪」は、「復讐は主に委ねる」ことを題材にした小説だ。シンガポールに暮らす亜季子は、浮気を重ねる夫との生活に嫌気がさし、離婚を告げ、日本に住む新しい恋人との新生活に臨む。そんなある日、前の夫が爆発事故のせいで大火傷を負ったとの知らせが届く。今、彼の回りには、彼を愛し、世話する人は誰もいない。彼女は仕方なく、シンガポールに戻って夫の看病をし、彼が癒しの奇跡を求めて聖地ルルドに行きたいと言えば、付き添ってフランスへ行く。ある機会に彼女はローマ12章の言葉に触れる。そして「自分を裏切り、ひどい目にあわせ、今は助ける人もなくなった前夫に、自分の生涯を捧げることが自分の生きる道である」ことを知らされ、新しい生活を断念してシンガポールに戻る。

・キリストにある平和はキリストの十字架によりもたらされた。私たちは十字架と復活を通して、神が世界を支配し、人間の歴史に介入される方であることを知った。知ったのであれば、「私たちの安全、平和を神に委ねれば良いではないか」と聖書は語る。敵を愛するということは、違う価値観を持つ相手を受け入れることを前提にし、危険を伴う。それでもそうすべきだとパウロは訴える。敵意の隔てを崩すのはそれしかないことを聖書は教え、世界史は教え、生活上の体験も教える。何よりも、私たちは神の護りの中にあり、必要な時には神が行為して下さることを信じる。イエスは十字架上で自分を殺そうとする者たちのために祈られた。私たちにはできないが従いたいと願う。

-ルカ23:33-34「されこうべと呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』。人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った」。

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