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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年12月23日祈祷会(詩編82篇、神々を裁かれる主)

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1.小さき者の神

 

・本詩は「天上の法廷で主が神々を裁かれる」という特異な内容を持つ詩である。古代オリエントでは、神々がそれぞれの地を統治し、主なる神がその神々の上に立つという神話があった。その神話の形式に則り、神々を裁かれる主(エロヒーム)を描く。ここでの神々は部族神エル(カナンの至高神)と呼ばれる。

-詩編82:1「神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行われる」。

・メソポタミヤ神話ではしばしば「神々の集い」が登場する。旧約聖書もその影響を受け(旧約聖書が最終的に編集されたのはメソポタミヤのバビロンの地である)、申命記やヨブ記等にその痕跡を残している。申命記では主(ヤハウェ)も部族神として、神々の一つとされる(「主に割り当てられたのはその民、ヤコブが主に定められた嗣業」)。

-申命記32:8-9「いと高き神が国々に嗣業の土地を分け、人の子らを割りふられた時、神の子らの数に従い、国々の境を設けられた。主に割り当てられたのはその民、ヤコブが主に定められた嗣業」。

・古代民族はそれぞれ固有の神を持っていた。カナンの神はエルであり、バビロンの神はマルドゥク、そしてイスラエルの神はヤハウェだった。イスラエルがバビロンにより国を滅ぼされ、捕囚にされた時、人々はイスラエルの神がバビロンの神に負けたと思った。そのイスラエルは捕囚地で主なる神と改めて出会い、主なる神ヤハウェこそ全地を統治される神であられることを知り、他の神々は偶像にすぎないことを見出していく。

-イザヤ45:5-7「私が主、ほかにはいない。私をおいて神はない。私はあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった。日の昇るところから日の沈むところまで、人々は知るようになる。私のほかはむなしいものだ、と。私が主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。私が主、これらのことをするものである」。

・詩人は偶像神たちに、「あなた方は何故弱者や貧者のために立たないのか」と告発する。虐げられている者たちの姿が神の目には映っているのに、悪者に有利な判定を下す存在に対して主なる神は叱責される。

-詩編82:2-4「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ」。

・人間は本質的に自分たちの欲望を肯定してくれる偶像の神に惹かれる。旧約聖書はイスラエルの民すらも偶像礼拝に惹かれ続けてきたその歴史をえぐり取る。そのイスラエルをもう一度主なる神に復帰させるためには、国の滅亡、捕囚が必要だった。人間は砕かれないとわからない、裁きは人を救うためになされる。

-列王記下21:3-7「彼(マナセ)は父ヒゼキヤが廃した聖なる高台を再建し・・・バアルの祭壇を築き、アシェラ像を造った。更に彼は天の万象の前にひれ伏し、これに仕え・・・主の神殿の中に彼は異教の祭壇を築いた・・・彼は自分の子に火の中を通らせ、占いやまじないを行い、口寄せや霊媒を用いるなど、主の目に悪とされることを数々行って主の怒りを招いた。彼はまたアシェラの彫像を造り、神殿に置いた」。

 

2.神々を裁かれる主

 

・主なる神は、偶像の神々とそれを信じる者たちに対して、「あなた方は神ではなく人にすぎない。あなた方は死ぬ」と死刑判決を下される。地上の悪しき管理者たちは天上の神の権威を借りて統治を行う。古代の王たちは自分こそ神の子であると権威を誇り(エジプト王は太陽神の化身とされた)、現代の統治者たちは思想という偶像を用いて逆らう者を抑圧する。戦前の日本においては天孫降臨という神話の中で天皇制が構築され、ナチスドイツではアーリア民族という神話が統治の武器になった。

-詩編82:5-7「彼らは知ろうとせず、理解せず、闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。私は言った『あなたたちは神々なのか、皆、いと高き方の子らなのか』と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する」。

・詩篇82:6はヨハネ10章に引用されている。ここにいう神々とは「神の言葉を受けたイスラエル人」を指しているとの伝統的理解の上に立つ。

-ヨハネ10:34-36「そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『私は言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされた私が、『私は神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか」。

・地上においてはいまだに悪人が権力を握り、弱者は正義を奪われている。それは悪しき神々の支配下に人間はあるとの理解である。エペソ書はその悪魔的諸力を「ストイケア」と呼ぶ。

-エフェソ2:1-3「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。私たちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」。

・詩篇82編の詩人は、「主なる神よ、立ち上がり、この地を裁いて下さい。自らを神の座に置く者たちを裁いてい下さい」と祈る。ここでは偶像神およびそれに従う者たちが唯一の神(ヤハウェ)によって裁かれる。

-詩編82:8「神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう」。

 

3.詩篇82編の黙想

 

・イスラエルは紀元前587年にバビロニヤに国を滅ぼされ、国民は捕囚として遠き異国の地に留置された。イスラエルの民は捕囚の苦しみの中で、神は何故私たちを滅ぼされたのか、自分たちの存在の意味は何か、を探り、自分たちが神により選ばれ、特別な使命を与えられたとの自覚を持つようになる。旧約聖書の中心である律法の書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)はこの捕囚時代にバビロンでまとめられた。国家を無くし、国民共同体としては滅んだイスラエルが、信仰共同体、聖書の民として生き返った。バビロンの地で書き始められた聖書はその後も書き続けられ、紀元前3世紀頃にはイザヤ、エレミヤ等の預言書もまとめられ、旧約聖書は次第に正典として扱われるようになり、ギリシア語にも翻訳され、民族を超えて異邦人にも読まれ始める。イスラエル、後のユダヤ人は二度と国家を形成することはなかったが、民族としては世界中に広がっていき、世界各地に彼等の礼拝所であるシナゴークが立てられ、聖書が読まれた。ローマ帝国の時代には帝国人口の五分の一はユダヤ人であったといわれている。

・本詩は偶像の神々を裁く唯一の神が賛美される。捕囚前のイスラエルは民族の神ヤハウェを信仰していたが、ヤハウェはもともと多神教世界の中の一柱の神にすぎなかった。しかし捕囚の体験を通して、イスラエルの民はヤハウェこそ唯一絶対の神、天地創造の神と受け止めた。唯一神信仰が生まれたのは捕囚の体験であり、それを導いたのは預言者たちであった。

-イザヤ44:6-8「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。私は初めであり、終わりである。私をおいて神はない。だれか、私に並ぶ者がいるなら、声をあげ、発言し、私と競ってみよ。私がとこしえの民としるしを定めた日から、来るべきことにいたるまでを告げてみよ。恐れるな、おびえるな。既に私はあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたたちは私の証人ではないか。私をおいて神があろうか、岩があろうか。私はそれを知らない」。

・イスラエルの王は神によって油注がれ、神の御心を行うために立てられる。だから神の御心に沿って悪しき者から弱者を守り、公平な政治を行うことが為政者に求められていた。ところが現実は権力者や一部の特権階級のための政治になっていた。強い者に傾く現実に対して絶えず反省を求め、批判したのが預言者たちであった。

-エゼキエル34:1-11「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった・・・彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった・・・それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、私は牧者たちに立ち向かう・・・見よ、私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」。

・「主なる神はこう言われる。見よ、私は牧者たちに立ち向かう・・・見よ、私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」という言葉に中に捕囚地で見出した神の存在がある。エゼキエルは捕囚地に立てられた預言者であった。捕囚という困難がイスラエルを神の民とした。

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