1.我らの救い
・詩編66編は出エジプトの出来事を回想しながら「民族の救いに対する感謝の歌」(1-12節)と、「個人の救いに関する感謝の歌」(13-20節)が統合された詩である。詩人はまず「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ」と歌い始める。
-詩編66:1-4「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。御名の栄光をほめ歌え。栄光に賛美を添えよ。神に向かって歌え、『御業はいかに恐るべきものでしょう。御力は強く、敵はあなたに服します。全地はあなたに向かってひれ伏し、あなたをほめ歌い、御名をほめ歌います』」。
・詩編42-72編はエロヒーム歌集と呼ばれ、神の名がヤハウェ(主、部族の神)ではなく、エロヒーム(神、世界の神)と呼ばれる。エロヒーム歌集では全地を創造し、支配する神が賛美される。信仰の原点は奴隷の地エジプトからの解放の記憶である。
-詩編66:5-6「来て、神の御業を仰げ、人の子らになされた恐るべき御業を。神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った」。
・「神は海を変えて乾いた地とされた」、追い迫るエジプト軍からの救出を可能にした紅海の奇跡(出エジプト14:21-22)が賛美される。次の「人は大河であったところを歩いて渡った」、約束の地に入ろうとする民のために、主がヨルダン川をせき止められた故事(ヨシュア3:14)がここで歌われている。出エジプトの出来事はイスラエルにとって歴史の起点であり、信仰の原点であった。十戒の言葉は出エジプトの感謝から始まる。
-出エジプト記20:2-3「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」。
・旧約聖書の道徳は「あなたたちはエジプトの国で寄留者であったから寄留者を助けよ」という想起から始まる。
-出エジプト記22:20「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである」。
・本来は牧羊民の春の祭りであった過越しの祭は「小羊の犠牲による民族解放の祭」へと変えられ、農耕生活を背景にした除酵祭(初穂の祭)も「種入れぬパンをもって急いで旅立つ」民族の記念へと意味が変えられていく。イスラエルの民は弱小の民であった。その彼らが「眼に見えない全地の王」なる神を信じることを通して、自らの世界史的な使命を自覚するに至った。
-詩編66:7-9「神はとこしえに力強く支配し、御目は国々を見渡す。背く者は驕ることを許されない。諸国の民よ、我らの神を祝し賛美の歌声を響かせよ。神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない」。
・10節からはバビロン捕囚の苦しみと解放が語られる。「我らを網に追い込み、我らの腰に枷をはめ、人が我らを駆り立てる」、捕囚の屈辱と困難がここにある。「我らは火の中、水の中を通ったが、あなたは我らを導き出して、豊かな所に置かれた」、バビロンからの解放が第二の出エジプトの救いとして受け止められる。
-詩編66:10-12「神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。あなたは我らを網に追い込み、我らの腰に枷をはめ、人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが、あなたは我らを導き出して、豊かな所に置かれた」。
2.私の救い
・13節以降はそれまでの「我ら」が、「私」に変わる。救いの感謝のために満願の感謝の捧げ物をしますと詩人は歌う。雄羊、雄山羊、雄牛が捧げられていることより、祭司が公的な捧げものを行う光景である。
-詩編66:13-15「私は献げ物を携えて神殿に入り、満願の献げ物をささげます。私が苦難の中で唇を開き、この口をもって誓ったように、肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を、雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます」。
・「感謝を共にしよう」と祭司は会衆に語りかける。祭司の祈りが公の場で歌われ、会衆の祈りとして追体験される。民族を救われる神は、個人をも救われる神である。個人の祈りは平安祈願・災厄(さいやく)除去になりやすいが、それが会衆と共に祈ることを通して公同の祈りに高められていく。
-詩編66:16-20「神を畏れる人は皆、聞くがよい、私に成し遂げてくださったことを物語ろう。神に向かって私の口は声をあげ、私は舌をもってあがめます。私が心に悪事を見ているなら、主は聞いてくださらないでしょう。しかし、神は私の祈る声に耳を傾け、聞き入れてくださいました。神をたたえよ。神は私の祈りを退けることなく、慈しみを拒まれませんでした」。
3.詩篇66編の黙想
・聖書の神は、一義的には創造者として世界を支配し、イスラエルの民を導く歴史の主である。同時にその神は、苦難にあえぐ者の嘆きを聞き、一人一人の人生に寄り添う個人の神でもある。現代の教会も人類の救いを求め、同時に私の救いも求めていく。主の祈りが、「私の祈り」ではなく、「私たちの祈り」であることを銘記すべきである。
-主の祈り「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン」。
・イスラエルの神体験が出エジプトだけの体験であれば、その神は民族の神にとどまるが、バビロン捕囚を経ることを通して、イスラエルの民は異国にも神の支配が及び、神が「全地の神」であることを見出す。
-詩篇66:4「全地はあなたに向かってひれ伏し、あなたをほめ歌い、御名をほめ歌います」。
・当初は呪いとしか思えなかったバビロン捕囚は、振り返れば祝福であった。この気づきから信仰が生まれる。悲しみを知らない者は喜びをも知らない。
-詩篇126:1-6「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった。 その時には、私たちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。その時には、国々も言うであろう『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』と・・・主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように、私たちの捕われ人を連れ帰ってください。涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。
・「神の下さるものに悪いものはない」、この信仰こそ大事ではないだろうか。
-三浦綾子「泉への招待」「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ。その時、文字どおり天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとって、神は愛なのである。その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」。