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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年6月3日祈祷会(詩篇53編、神などいないとうそぶく者へ)

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1.神を無視して生きる愚か者

 

・詩篇53編は詩篇14編と同じ内容の詩である(違いは53編では神は“エロヒーム”と呼ばれ、14編では“ヤハウェ”と呼ばれる)。詩篇の中に同じ詩が重複している理由は、第一部(ダビデ詩集、1~41編)と第二部(エロヒーム詩集、42~83編)が当初は別個に流布していたためであろう。しかし、この二つの詩が重複して残されたのは、この詩がいかに重要視されたかを示している。イスラエルでは正面切って神なしとする無神論はない。しかし現実には「審き主などいない」として暴虐を尽くす者は多く、実際上の無神論は根強くあった。詩人は、神を知らぬ者=ナーバールは愚か者であると批判する。

-詩篇53:2「神を知らぬ者は心に言う『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」。

・「神を求める者はいない、一人もいない」と歌うこの詩は、後のパウロの信仰義認論において重い役割を果たした。

-ローマ3:10-12「次のように書いてある通りです『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない』」。

・「善を行う者はいない、一人もいない」、パウロはこの詩篇を通して、人間の罪を見つめた。

-詩篇53:3-4「神は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。一人もいない」。

・神などいないとうそぶく者は、心の痛みなしに、人を搾取する=「パンを食らうかのように私の民を食らう」。神を恐れないから自分の欲望のままに彼は生きる。己が力を誇るその高ぶりが弱者に対する暴虐として噴出する。

-詩篇53:5「悪を行う者は知っているはずではないか、パンを食らうかのように私の民を食らい、神を呼び求めることをしない者よ」。

・預言者は「正義と公平を」と叫び続けて来た。エレミヤが求めたのも正義と公平だった。

-エレミヤ5:1「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、一人でもいるか、正義を行い、真実を求める者が。いれば、私はエルサレムを赦そう」。

 

2.神は悪を放置されない

 

・しかし神は悪を放置されない。「神は邪悪な者の骨を撒き散らされる」、断固たる神の審きがあることを詩人は歌う。悪が栄えても一時的であり、どのような絶対権力者も必ず滅んできたではないかと。

-詩篇53:6「それゆえにこそ、大いに恐れるがよい。かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を、神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた」。

・神の義による支配は民族内の正義のみでなく、他民族の暴虐からの救いをももたらす。イスラエルを滅ぼし、民を連れ去ったバビロニアが滅ぼされ、捕囚の民が帰ってきたのを、私たちは見たではないかと詩人は歌う。

-詩篇53:7「どうか、イスラエルの救いが、シオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう」。

・人は幸福を求めて生きる。だが己の欲望充足が幸福であると錯覚する時、社会は欲望充足の戦場となり、人々の理性はゆがみ、良心は麻痺していく。しかし主なる神はそのような状況を必ず糺される。それがイスラエルの信仰であった。イエスの母マリアの賛歌にもその信仰が浮かび上がる。

-ルカ1:51-55「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、私たちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」。

・人間にとって最大の関心は死だ。だが多くの日本人は復活も永遠の命も信じないゆえに、あくまで現世的に生きている。「この世でいかに幸せになるのか」、「いかに出世するか」、「いかに金持ちになるか」がその関心事になり、死はできるだけ考えまいとする。しかし必ず死ぬ時が来て、命の支配権が自分ではなく、神にあることを知る。それを知った時に人の生き方は変わる。それを伝えるのが私たちの役割だ。

-第一コリント1:22-25「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」。

 

3.詩篇53編の黙想

 

・詩篇53編の主題は、「神を見失った人間」の腐敗と堕落だ。人々は神の戒めに反する行為をしても天罰が下るわけではなく、思いのままに行為する時に自分の懐に富が蓄積されることに気づいて言う「神などいない」。しかし彼ら「神を知らぬ者」は、愚か者(ナバール)と呼ばれる。ここにあるのは神の存在を否定する無神論ではなく、神は自分たちの行為を罰せられることはないという楽観論だ。裁きなどないと考える時、人の欲と悪のブレーキは利かなくなる。しかし主は天から見ておられると作者は確信する。

-ルカ12:16-21「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った『倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と』。しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。

・「神は弱者の側に立たれる。最後の審判の時、それが明らかにされる」とイエスは言われる。神などいないとして放縦な生活を送る者よ、あなたの悪はいつまでも続かない。何故ならば人は必ず死に、財産を墓場までは持っていくことはできない。トルストイの民話「人にはどれだけの土地が必要か」が示すものも同じ真理である。人は最終的には自分を埋葬する墓地があれば、それで十分なのだ。

-詩編49:11-13「人が見ることは、知恵ある者も死に、無知な者、愚かな者と共に滅び、財宝を他人に遺さねばならないということ。自分の名を付けた地所を持っていても、その土の底だけが彼らのとこしえの家、代々に、彼らが住まう所。人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい」。

・神が最終の審判者であることを知る者と、それを無視する者とは、生き方が異なってくる。イエスがマタイ25章で言われることはそういうことだ。

-マタイ25:40-45「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。・・・はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」。

・弱肉強食、自然淘汰の現代社会にあって、「共に生きる」生活を私たちは目指す。なぜならば神が共にいて下さると信じるゆえだ。ポール・サイモン「明日に架ける橋」の原語は、「Bridge over troubled water」、「荒海に架ける橋」だ。ポール・サイモンは語る「生きることに疲れ果て、みじめな気持ちで涙ぐんでしまう時、その涙を僕が乾かしてあげよう。僕は君の味方だよ、どんなに辛い時でも、頼る友が見つからない時でも。荒れた海に架ける橋のように、僕はこの身を横たえよう」。キリストが私たちの贖いとして自分の身を投げて下さった、神の側から私たちに橋を架けて下さった。だから私たちもこの荒海に、人生の嵐が荒れ狂う海に、橋を架けよう。「明日に架ける橋」は、ベトナム戦争と公民権運動による混迷の70年代にアメリカで生まれ、人種隔離政策が続いていた80年代の南アフリカで歌われ、2001.9.11テロの犠牲者を追悼する集会の中で歌われてきた。こういう歌を書く人がいる限り、この世はサタンの支配する世界にはならない。

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