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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年5月6日祈祷会(詩編49編、人は死ぬ時に何を墓場に持っていくのか)

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  • 命を金で贖うことはできない

 

・詩編49編は人の生死に焦点を当てる。詩人は貧しさゆえに金持ちから貪られ、権力者から迫害されている。何故義人が苦しみを受け、悪人が栄えるのか、しかし神はその謎の答えを下さった。だから私の言葉に聞けと詩人は訴える。元来は知恵の教師が竪琴に合わせて弾き語る教訓詩であったのであろう。

-詩編49:2-5「諸国の民よ、これを聞け。この世に住む者は皆、耳を傾けよ。人の子らはすべて、豊かな人も貧しい人も。私の口は知恵を語り、私の心は英知を思う。私は格言に耳を傾け、竪琴を奏でて謎を解く」。

・詩人は、金があるゆえに権力を握り、傍若無人に振舞う者たちに苦しめられてきた。何故、神に逆らう者が栄え、神により頼む貧しい者を迫害することを、神は放置されるのか、納得が行かなかった。しかし永遠という視点で見れば別の面が見えてきた。「人は命を金で贖うことはできない」、「富と権力を手にして、何でも思いのままに出来るとうそぶく人も、死の前には全くの無力である」と。

-詩編49:6-10「災いのふりかかる日、私を追う者の悪意に囲まれるときにも、どうして恐れることがあろうか。財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか」。

・イエスが「死の前には富も権力も無力であり、命を贖う事はできない。だから自分の命(地上の生)のみを求める者は、本当の命を失う」と語られた時、この詩篇49:9を想起されていたのではないだろうか。

-マルコ8:34-37「(イエスは)群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた『私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか』」。

・地上における不平等も、死においては水平化される。人がいくら富を地上に積んでも彼はそれを墓場に持っていくことはできない。「人間は栄華のうちにとどまることはできない」のである。トルストイの民話「人にはどれだけの土地が必要か」が示すものも同じ真理である。人は最終的には自分を埋葬する墓地があれば、それで十分なのだ。

-詩編49:11-13「人が見ることは、知恵ある者も死に、無知な者、愚かな者と共に滅び、財宝を他人に遺さねばならないということ。自分の名を付けた地所を持っていても、その土の底だけが彼らのとこしえの家、代々に、彼らが住まう所。人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい」。

 

2.死を贖うものは

 

・しかし、ここで問題が起きる。なるほど、死は地上の不平等を水平化する。死ねば金持ちも貧乏人もない。それならば神に従うことの意味がどこにあるのか。神に従う人(賢者)も神に逆らう者(愚者)と共に滅びるではないか。それがコヘレトの陥ったニヒリズムだ。

-コヘレト2:15-17「私はこうつぶやいた『愚者に起こることは、私にも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ』これまた空しい、と私は思った。賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。私は生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかも私を苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ」。

・「神に従う人生を送ってもどうせ滅びるのであれば、せめて生きている間は楽しみたい」と人は思うであろう。その虚無主義を打ち破るのが信仰だ。人間は自らの命を贖うことはできなくとも、神にはできる。

-詩編49:14-16「これが自分の力に頼る者の道、自分の口の言葉に満足する者の行く末。陰府に置かれた羊の群れ、死が彼らを飼う。朝になれば正しい人がその上を踏んで行き、誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。しかし、神は私の魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる」。

・「神は私の魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる」と詩人は歌ったが、そこにはキリストに出会い、復活の命をいただいたパウロと同じ喜びがある。

-第一コリント15:54-55「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』」。

・その真理を悟った者はもはや権力者も恐れないし、金持ちをうらやむこともない。彼らの名誉も金もこの地上だけのものであり、神の前には何の意味もないし、命を支配されるのは神であることを知ったからだ。

-詩編49:17-21「人に富が増し、その家に名誉が加わるときも、あなたは恐れることはない。死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず、名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。命のある間に、その魂が祝福され、幸福を人がたたえても、彼は父祖の列に帰り、永遠に光を見ることはない。人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい」。

 

3.人は何を墓場に持っていけるのか

 

・イエスの語られた「愚かな金持ちの喩え」は、この詩篇49編を想起しながら語られたのではないだろうか。「人は何を墓場に持っていけるのか」は根源的な問いである。

-ルカ12:19-21「(金持ちは自分に言った)『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

・詩篇49編はコヘレト書との相関が強い。コヘレトも「人は死に臨んでは動物と同じなのだ」と語る。

-コヘレト3:18-21「人の子らに関しては、私はこうつぶやいた。神が人間を試されるのは人間に自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死にあれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべては一つのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう」。

・「人間は動物に何らまさるところはない」、本当にそうなのか。動物は死後の命に希望を持つことはできないが人間にはできる。内村鑑三は「後世への最大遺物」という講演をし、述べた「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、我々を育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない。では何をこの世に残していこうか」。自分の死後の世界に最大遺物を残したいという気持ちは人だけが持てる、動物にはない希望だ。

・詩人は歌う「神は私の魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる」(49:16)、この喜びも動物は持てない。人は動物を超えた存在として創造されている。進化論によれば、20万年前に人は「ホモ・サピエンス(賢い人間)」として生まれた。そして1万年前に人は「ホモ・デヴィヌス(神を求める人間)」になった。創世記はその間の歴史を語る(小山清隆「進化論と創世記の対話」から)。

-創世記4:25-26「再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授けられたからである。セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」。

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