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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年5月13日祈祷会(詩編50編、犠牲ではなく感謝を捧げよ)

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  • 犠牲の捧げ物で命を贖うことはできない

 

・本詩は、「犠牲の捧げ物を捧げさえすれば神の赦しは来る」とする安易な信仰に対する戒めの詩である。最初に全地の支配者である神が、天と地を証人として呼ばれ、契約を守ろうとしない信仰者を召喚される。

-詩編50:1-3「神々の神、主は、御言葉を発し、日の出るところから日の入るところまで、地を呼び集められる。麗しさの極みシオンから、神は顕現される。私たちの神は来られる、黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き、御もとには嵐が吹き荒れている」。

・神はシナイ山において民と契約を結ばれ、イスラエルをご自身の民とされた。しかし民はその契約を守ろうとしないゆえに、神の法廷に召喚される。「私はお前を告発する」と神は言われる。民が契約を破ったからだ。

-詩篇50:4-7「神は御自分の民を裁くために、上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる。『私の前に集めよ、私の慈しみに生きる者を、生贄を供えて私と契約を結んだ者を』。天は神の正しいことを告げ知らせる。神は御自ら裁きを行われる『私の民よ、聞け、私は語る。イスラエルよ、私はお前を告発する。私は神、私はお前の神』」。

・「生贄を供えて契約を結ぶ」、契約(ベリース)の本来の意味は「切る」である。古代、契約の締結に当たって、犠牲の動物を屠って二つに切り、当事者がその間を通り、契約に違反した場合はこのようになってもかまわないとの意思を示した

-創世記15:17「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」。

・契約は生死をかけて締結されるものであり、違反者は告発される。その契約は「捧げものを捧げよ」と言う契約ではない。「神の民としてふさわしく生きよ」との契約であった。祭儀は行われていたが、神が求められるのは祭儀ではない。神は犠牲の動物の血や肉を必要とされない。

-詩篇50:8-13「献げ物についてお前を責めはしない。お前の焼き尽くす献げ物は、常に私の前に置かれている。私はお前の家から雄牛を取らず、囲いの中から雄山羊を取ることもしない。森の生き物は、すべて私のもの、山々に群がる獣も、私のもの。山々の鳥を私はすべて知っている・・・たとえ飢えることがあろうともお前に言いはしない。世界とそこに満ちているものはすべて私のものだ。私が雄牛の肉を食べ、雄山羊の血を飲むとでも言うのか」。

・神は犠牲の動物の血や肉を必要とされない。私たちが捧げるべきものは生贄ではなく、感謝である。口先だけの信仰が何の役に立つのか。

-詩篇50:14-20「告白を神への生贄としてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから、私を呼ぶがよい・・・神は背く者に言われる『お前は私の掟を片端から唱え、私の契約を口にする。どういうつもりか。お前は私の諭しを憎み、私の言葉を捨てて顧みないではないか。盗人と見ればこれに組し、姦淫を行う者の仲間になる。悪事は口に親しみ、欺きが舌を御している。座しては兄弟をそしり、同じ母の子を中傷する』」。

 

2.犠牲ではなく、感謝を

 

・人間は災禍をもたらす自然現象を神の怒りと受け止め、それを宥めるための供犠、供物等を捧げる宗教儀礼を生みだしてきた。イスラエルでもそうであり、焼きつくす捧げ物は「宥めの香り」と呼ばれた(レビ1:9)。しかし預言者たちは、それは人間中心の宗教であり、神はそのようなものは喜ばれないと激しく批判する。

-アモス5:21-24「私はお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとえ、焼き尽くす献げ物を私にささげても、穀物の献げ物をささげても、私は受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌を私から遠ざけよ・・・正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」。

・「犠牲を捧げれば救われる」という考え方は、「捧げる」という人間の行為を中心にする。そこには神はなく、あるのは自己の救いを求める自我だけである。「信仰とはそうではない」と預言者は繰り返し述べてきた。

-エレミヤ7:9-11「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、私の名によって呼ばれるこの神殿に来て私の前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。私の名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。私にもそう見える、と主は言われる」。

・「行いを正せ、私の民としてふさわしい生き方をせよ。そうでなければあなたは裁かれる」と詩人は、うそぶく信仰者に警告する。

-詩篇50:21-23「お前はこのようなことをしている。私が黙していると思うのか。私をお前に似た者と見なすのか。罪状をお前の目の前に並べて、私はお前を責める。神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、私はお前を裂く。お前を救える者はいない。告白を生贄としてささげる人は、私を栄光に輝かすであろう。道を正す人に、私は神の救いを示そう」。

 

3.今日の問題として詩篇50編を考える。

 

・初代教会は、「エルサレム使徒会議」を開いて、信徒の割礼の問題を議論した。エルサレム教会は異邦人伝道には賛成していたが、異邦人も割礼を受けないと救われないという立場だった。創世記では選びのしるしとして、「イスラエルの民は割礼を受けるように神が命じ、割礼を受けない男子は民から断ち切られる」と記している。 割礼はユダヤ人にとっては「救いのしるし」であり、当然受けるべきもので、イエスを信じてもそれは変わらないとエルサレム教会は信じていた。

-使徒15:1-2「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった」。

・会議では、「異邦人に割礼を強制しない」方向で結論が出たが、火種は消えず、対立は解けなかった。

-ガラテヤ2:11-12「ケファがアンティオキアに来た時、非難すべきところがあったので、私は面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです」。

・使徒会議では、ペテロとヤコブの仲裁によって保守派のエルサレム教会と改革派のアンティオキア教会に合意が成立し、教会の分裂が防がれたが、その解決策は「偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように」というものだった(使徒教令)。いずれもユダヤ教の食物規定に関する戒律であり、割礼は免除されてもユダヤ教の戒律は守りなさいという玉虫色の決定になっている。

・無割礼者と食卓を共にしないという問題は、今日の問題でもある。バプテストを含めた一部の教会では「主の晩餐式は信徒(洗礼を受けた会員に)に限る」と限定し、日本基督教団では、「未受洗者に聖餐に預からせた」として紅葉坂教会の北村慈郎牧師を教団会規違反として免職処分とした。エルサレム教会は紀元70年のエルサレム陥落後は姿を消す。ユダヤ教と妥協を重ねることを通して、やがてユダヤ教の中に埋没していった。エルサレム教会は割礼と食物戒律を捨てることが出来ないばかりに滅んでいった。「洗礼なしには救いはない」、「洗礼を受けない人は主の晩餐に預かることが出来ない」とする態度は、「割礼なしに救いはない」、「食物戒律を守らない異邦人は汚れている」として滅んでいったエルサレム教会と同じではないだろうか。

・洗礼を受け、主日礼拝を守り、十一献金をしても、そのことが救いをもたらすのではない。私たちは救われたから感謝する。礼拝や献金が喜びにならない限り、救われているとはいえないのではないか。

-マタイ7:21「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである」。

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