1.無実の告発に苦しむ詩人
・詩編64編は無実の罪で告発された詩人が神に救済を求める詩である。詩人は「敵の脅威」に命の危険を感じ取り、神に「私の命」の保護を望み、「さいなむ者の集り」から、「悪を行う者の騒ぎ」から、「私を隠してください」と祈る。
-詩編64:2-3「神よ、悩み訴える私の声をお聞きください。敵の脅威から私の命をお守りください。私を隠してください、さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから」。
・無実の罪で不当な告発を受ける例は古代においても数限りなくあった。預言者たちは繰り返し語った。
-イザヤ29:21「彼らは言葉をもって人を罪に定め、町の門で弁護する者を罠にかけ、正しい者を不当に押しのける」。
・イエスを裁いた最高法院の死刑判決もそうであった。
-マタイ26:59-61「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。 偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、 『この男は、神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができると言いました』と告げた」。
・菅家利和さんが裁かれた足利事件(1990年逮捕、再審無罪2009年)が冤罪であったことは明らかになったし、最近では厚労省・村木厚子元局長・郵便不正事件でも、検察の証拠偽造の疑いが強まり、無罪判決が言い渡されている(2010.9.10、大阪地裁)。不正な告発者は「舌を鋭い剣」とし、「毒を含む言葉を矢」として、隠れた所から射る。
-詩編64:4-5「彼らは舌を鋭い剣とし、毒を含む言葉を矢としてつがえ、隠れた所から無垢な人を射ようと構え、突然射かけて、恐れもしません」。
・彼らは、自分たちの悪事が「見抜かれることはない」とうそぶき、悪巧みが「判明することはない」と言い放つ。その悪意は人の目に見えず、人はそれに騙されてしまう。
-詩編64:6-7「彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け、『見抜かれることはない』と言います。巧妙に悪を謀り、『我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す』と言います」。
2.その告発から救いだされる主
・しかし神は真実を見ぬかれ、企まれた不正を暴き、彼らの悪意の矢を彼ら自身に打ち返される。彼らの毒のある言葉が、彼ら自身の墓穴を掘ると詩人は断言する。
-詩編64:8-9「神は彼らに矢を射かけ、突然、彼らは討たれるでしょう。自分の舌がつまずきのもとになり、見る人は皆、頭を振って侮るでしょう」。
・悪人の悪巧みは神により粉砕され、悪人はその報いを受け、人々はそこに神の業を見て、神を讃美する。
-詩編64:10-11「人は皆、恐れて神の働きを認め、御業に目覚めるでしょう。主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い、心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります」。
・短期的には私たちは多くの不条理な苦しみを見る。しかし終には、「そこに神の業が働く」のを我々は見る。バビロン捕囚は当事者たちには災いであったが、その捕囚地で預言書が編集され、創世記や出エジプト記がまとめられた。捕囚がなければ旧約聖書は生まれなかった。捕囚を通じてイスラエルは王や神殿に依存する民族から、聖書の民へと変えられていった。
-エレミヤ29:10-11「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」。
・「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」(マタイ10:26)、今は全部を知らないがやがては知るようになる、それが私たちの信仰である。
-第一コリント13:12「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせて見ることになる。私、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。
- 人生の現実の中で、神の真実を信じていく
・現実の社会では、常に「正しい人の正しさが明らかにされ、不正の人は罰を受ける」わけではない。戦後の日本では多くの人が「戦時中の捕虜虐待」等で処刑されたが、大半は現場の指揮官や兵士たちであり、戦争を企画し遂行した高級参謀等の罪は見逃されている。B級戦犯として死刑判決を受けた加藤哲太郎氏の「私は貝になりたい」との言葉は重い。
-加藤哲太郎・狂える戦犯死刑囚より「こんど生まれ変わるならば、私は日本人にはなりたくありません。二度と兵隊にはなりません。いや、私は人間になりたくありません。牛や馬にも生まれません、人間にいじめられますから・・・私は貝になりたいと思います。貝ならば海の深い岩にへばりついて何の心配もありませんから。何も知らないから、悲しくも嬉しくもないし、痛くも痒くもありません。頭が痛くなることもないし、兵隊にとられることもない。妻や子供を心配することもないし、どうしても生まれかわらねばならないのなら、私は貝に生まれるつもりです」。
・他方、積極的に反対しなかった無作為の罪を問われることもある。8月13日に放映されたNHKドラマ「戦争だから仕方がなかったのか」で、主人公の医師は「しかたなかったと言うてはいかんのです」と答えた。九州大学捕虜生体解剖事件で死刑に問われた助教授の医師は、教授の命令のもと、米兵捕虜の生体解剖を手伝った。彼は教授に中止を進言するが、却下され、やむなく参加する。医師は絞首刑の判決を受け、凶行を止められなかった自分と向き合っていく。遠藤周作「海と毒薬」は、この事件を題材として書かれ、「神なき日本人の罪意識」が問われている。解説では、「クリスチャンであれば原理に基づき強い拒否を行うはずだが、そうではない日本人は同調圧力に負けてしてしまう場合があるのではないか」、自身もクリスチャンであった遠藤がこのように考えたことがモチーフとなっているという。
・ハンナ・アーレントはナチスのユダヤ人虐殺の責任を問う「アイヒマン裁判」(1961年)をレポートして、「エルサレムのアイヒマン─悪の陳腐さについての報告」を著した。アイヒマンはゲシュタポのユダヤ人移送局長官で、アウシュヴィッツ強制収容所へのユダヤ人大量移送に関わったとして告発されたが、裁判を通じてアイヒマンは「命令に従っただけ」だと主張した。彼女は書く「彼は愚かではなかった。完全な無思想性、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だったのだ」。またアーレントは国際法上における「平和に対する罪」に明確な定義がないことを指摘し、ソ連によるカティンの森事件(ポーランド捕虜の虐殺事件)や、アメリカによる広島・長崎への原爆投下が裁かれないことを批判した。アーレントの報告書は激しい非難を巻き起こした。「すべての悪が表ざたになるわけではない現実の中で、それでも神の真実を信じて行けるか」が問われている。私たちはすべてを知るわけではないことを受け入れざるを得ない。
-第一コリント13:12「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。