江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年8月12日祈祷会(詩編63篇、神の慈しみ)

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1.苦難の中で神を祈り求める

 

・詩編63篇は時代背景をめぐって解釈が分かれる。ある人は王国時代末期に敵からの救いを求めて神殿に来た時の歌だとし、別の人は捕囚帰還後の第二神殿時代の歌だという。時代の確定は難しい。

-詩編63:2「神よ、あなたは私の神。私はあなたを捜し求め、私の魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、私の体は乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています」。

・詩篇の出だしは詩編42篇に酷似する。「神を渇き求める」という表現は詩編中、42編と本詩のみに現れる。詩人は42編を思い起こしながら、本詩を歌っているであろう。

-詩編42:2-3「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか」。

・詩篇42編は捕囚地で神を慕う者の祈りとされ、神殿から遠く離された悲哀の歌である(いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか)。しかし本詩の詩人は聖所(神殿)に来て神を仰ぎ望み、喜びに満ちている。明らかに詩篇42編とは異なる時代、捕囚帰還後の第二神殿時代の歌と見るべきであろう。

-詩編63:3「今、私は聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています」。

・聖所で祈る詩人に、神が答えて下さった。神が共にいて下さった喜びが詩人に神を賛美させる。神の慈しみ(ヘセド)に接し、詩人は乳と髄のもてなしを受けたようだと語る(乳=ヘレブ=脂肪、髄=デシエン=油、脂肪と油はご馳走であった)。詩人は感謝の祈りを捧げる。

-詩編63:4-6「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。私の唇はあなたをほめたたえます。命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります。私の魂は満ち足りました、乳と髄のもてなしを受けたように。私の唇は喜びの歌をうたい、私の口は賛美の声をあげます」。

・祈りの時こそ、神と出会う場である。詩人はそれを信じ、毎夕、神への祈りをささげる。

-詩編63:7-9「床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。あなたは必ず私を助けてくださいます。あなたの翼の陰で私は喜び歌います。私の魂はあなたに付き従い、あなたは右の御手で私を支えてくださいます」。

・エルヴィス・プレスリーはゴスペル歌手であり、彼の歌う「夕べの祈り」は印象的だ。

-プレスリー「夕べの祈り」から「もし,私が今日誰かの心を傷つけたなら、もし私が一歩、つまずきの原因となったなら、もし、私が惨めさの中に,自分を見失ったなら、愛する神よ、お許し下さい。あなたに打ち明けた罪と、あなたにも隠した秘密の罪とを、どうか許して下さい」。

 

2.神が共にいて下さる喜び

・詩人は敵に命を狙われ、救済を求めて神殿に来た。しかし、神が敵を滅ぼされると信じる故に、彼は自分の手で報復しようとは思わない。

-詩編63:10-11「私の命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ、陰府の深みに追いやられますように。剣にかかり、山犬の餌食となりますように」。

・神の慈しみは、新約においては「神の愛」と訳される。ローマ8章のパウロの言葉は詩篇63編の核心を語る神への信頼をのべる。

-ローマ8:31-33「これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか・・・だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです」。

・最後に詩人は王のために祈る。第二神殿時代、国はペルシャ帝国の支配下にあり、ユダヤの王はいない。しかし、異邦人の植民地支配から解放され、ダビデ王家が再興されるように詩人は祈る。個人の救いの確信が、民族の救い(ダビデ王朝の回復)に発展している。

-詩編63:12「神によって、王は喜び祝い、誓いを立てた者は誇りますように。偽って語る口は、必ず閉ざされますように」。

 

3.詩篇63編の黙想~ヘセド

 

・詩編63編の中心になる言葉は4節「慈しみ=ヘセド」であろう。詩人は歌う「あなたの慈しみは命にもまさる」、詩人が救いへの信頼と希望を置いているのは、この神のヘセドなのである。ヘセドは旧約に245回用いられ、そのうち詩編が127例を数える。ヘセドは、本来は共同体内倫理の基礎として、弱者保護と相互扶助をうたった言葉であり、それを神の命令として最初に具体化したのは預言者ホセアである。

-ホセア2:21「私は、あなたととこしえの契りを結ぶ。私は、あなたと契りを結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ」。

・誰であれ、主に信頼するすべての者に、主の助けは与えられる。ヘセドは慈愛をもって苦しむ者をその苦難から救い出す神の業として多くの詩人たちは歌った。

-詩篇6:5「主よ、立ち帰り、私の魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、私を救ってください」。

・人間は神から「命の息」を吹きこまれ、生きる者になった(創世記2:7)。その人間の命を支え、これを豊にする神の働きが、慈しみ(ヘセド)である。人は神との関係が正しくある時に「生ける魂」となり、それが断絶した時に「生ける屍」となる。しかし、失意の中にあって死者の世界に閉じ込められたような生もまた、神の慈しみ(ヘセド)に触れることによって、生き生きとした生に戻される。

・賛美歌「アメイジング・グレイス」は、「驚くばかりの恵み」と訳されているが、その「グレイス」graceと英語に訳されたギリシア語は「カリス」、この言葉はヘブル語「ヘセド」からくる。つまり、ギリシア語の「カリス」は、契約関係にある者も契約関係にない者にも注がれる神の愛ヘセドを意味する。「Amazing Grace」は、救いに値しない自分のような者が、神の慈愛を受けた喜びを歌う。

Amazing grace how sweet the sound、That saved a wretch like me. I once was lost but now am found, Was blind but now I see.

・第2次大戦時代のドイツの神学者ヘルムート・ティーリケは著書の中で、戦争中に体験した出来事を語る。戦争中にティーリケは「神はいずこにいますか」という小冊子を書いて兵士たちに配布したが、ある日、それを読んだ18 才の戦車兵から手紙を受け取る。手紙には、「あなたがここに書いていることは全くの馬鹿話です。この私に対して出会う神はどこにもません。この目で見た全ての恐るべき事の中に、神なんか存在しないという反証を私は十分すぎるほど経験してきました、神がどこかにいるかと仮定するよりは、神は不在であると考える方がずっと良いことなのです」。著者はすぐに返事を書き、戦場にいる青年との間に何度か手紙のやり取りがあった。そうこうするうち、戦場からの通信は途絶えた。何週間かの空白の後に、青年の母親から手紙が届き、青年がティーリケに出そうとした書きかけの破れた手紙が同封されていた。青年は敵の砲弾に撃たれて、彼の体は四散し、手紙の断片が残されていた。そこには「やはり神を信じることはできない」と書いてあった。母親の手紙はこう結ばれていた「私は、永遠の御国において、どこで息子に会えるのでしょうか」。

・ティーリケは亡くなった戦車兵の母親に手紙を送る。「ハンスの運命に関する疑問は、あなたにとって、切実な心配事であります。だからそれを、神に委ねなさい。私たちは、その行為が決して無駄ではなく、むしろ、私たちの心配事は主のみ心に必ず触れ、主がそれを感じて受けとめ、真剣に担ってくださるという約束を与えられているのです。主がそれをどのように処理され、そこから何を生み出すかは、私たちにはわかりません。しかしハンスのために祈りを捧げる時、私たちの思いわずらいとは別な仕方であなたの心の悩みは癒されることでしょう。それが取り去られ、主のもとに預けられるということは、大きな慰めであります。私たちの心配事が大きければ大きいほど、ますます深く私たちは主を信頼することが出来るのです」(H.ティーリケ「アメリカ人との対話」、ヨルダン社、p178-183)。

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