1.ヒゼキヤ王の動揺とイザヤの確信
・前701年、アッシリア軍はエルサレムを包囲し、降伏を迫った。圧倒的武力を誇るアッシリアの将軍たちは、「お前たちは主に頼ると言うが、その主が何をしてくれるのか」とイスラエルの神を嘲笑した。武力では対抗できない。ユダ王ヒゼキヤは屈辱を預言者イザヤに訴える「神にとりなして欲しい」と。
-列王記下19:3-4「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない。生ける神をののしるために、その主君、アッシリアの王によって遣わされて来たラブ・シャケのすべての言葉を、あなたの神、主は恐らく聞かれたことであろう・・・ここに残っている者のために祈ってほしい」。
・先にヒゼキヤは貢物をアッシリアに送って難を逃れたが、このたびは覚悟を決めた。アッシリアが望んでいるのはユダを単に支配下に置くことではなく、ユダを滅ぼしてその領土を帝国に取り組むことであり、そうなれば北イスラエルと同じようにユダ民族も永久に滅んでしまうことが分かったからだ。イザヤは、「主はアッシリアを撃たれる」との言葉を伝える。列王記下18-20章の記事はそのままイザヤ書36-39章に引用されている。イザヤ書はアッシリア軍の攻撃に揺れるユダに対して、預言者が語った言葉である。
-列王記下19:6-7「イザヤは言った『あなたたちの主君にこう言いなさい。主なる神は言われる。あなたは、アッシリアの王の従者たちが私を冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、私は彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される』」。
・アッシリア軍主力はユダヤの重要拠点ラキシュを落とし、今はリブナの町を攻略している。アッシリア王はそこから、再度の降伏勧告をユダ王に送る(ラキシュの攻防はアッシリアの首都ニネベ宮殿跡の壁画に描かれている)。
-列王記下19:10-13「ユダの王ヒゼキヤにこう言え。お前が依り頼んでいる神にだまされ、エルサレムはアッシリアの王の手に渡されることはないと思ってはならない。お前はアッシリアの王たちが、すべての国々を滅ぼし去るために行ったことを聞いているであろう。それでもお前だけが救い出されると言うのか」。
・ヒゼキヤ王は屈辱の中で主の神殿に行き、救済を祈った「あなたこそユダだけではなく、天地を統べる方であることを今こそ明らかにしてください」と。
-列王記下19:15-19「イスラエルの神、主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です・・・生ける神をののしるために人を遣わしてきたセンナケリブの言葉を聞いてください。主よ、確かにアッシリアの王たちは諸国とその国土を荒らし、その神々を火に投げ込みましたが、それらは神ではなく、木や石であって、人間が手で造ったものにすぎません・・・ 私たちの神、主よ、どうか今私たちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください。」
2.本当に主の言葉に頼って生きることが出来るのか
・ヒゼキヤの祈りに、主はイザヤを通して、言葉を与えられる「アッシリアは私の杖に過ぎないのに、今は私をさえあざ笑うようになった。アッシリアはその報いを受ける。私はアッシリアを撃つ」と。
-列王記下19:22-34「お前は誰をののしり、侮ったのか・・・イスラエルの聖なる方に向かってではなかったか・・・ お前が私に向かって怒りに震え、その驕りが私の耳にまで昇ってきたために、私はお前の鼻に鉤をかけ、口に轡をはめ、お前が来た道を通って帰って行くようにする・・・主はアッシリアの王についてこう言われる『彼がこの都に入城することはない。またそこに矢を射ることも、盾を持って向かって来ることも、都に対して土塁を築くこともない。彼は来た道を引き返し、この都に入城することはない』」
・アッシリアは神の怒りの鞭であるにもかかわらず、自らを神とした。だから主は撃たれる。
-イザヤ10:5-17「災いだ、私の怒りの鞭となるアッシリアは。彼は私の手にある憤りの杖だ。神を無視する国に向かって、私はそれを遣わし、私の激怒をかった民に対して、それに命じる「戦利品を取り、略奪品を取れ、野の土のように彼を踏みにじれ」と。しかし、彼はそのように策を立てず、その心はそのように計らおうとしなかった。その心にあるのはむしろ滅ぼし尽くすこと、多くの国を断ち尽くすこと・・・主はシオンの山とエルサレムに対する御業をすべて成就されるとき、アッシリアの王の驕った心の結ぶ実、高ぶる目の輝きを罰せられる。なぜならアッシリアの王は言った『自分の手の力によって私は行った。聡明な私は自分の知恵によって行った。私は諸民族の境を取り払い、彼らの蓄えた物を略奪し、力ある者と共に住民たちを引きずり落とした・・・斧がそれを振るう者に対して自分を誇り、のこぎりがそれを使う者に向かって高ぶることができるだろうか・・・それゆえ、万軍の主なる神は、太った者の中に衰弱を送り、主の栄光の下に炎を燃え上がらせ、火のように燃えさせられる』」。
・エルサレム包囲中のアッシリア軍に疫病が発生し、多くの将兵が死に、彼らは包囲を解いて引き上げたと歴史書は記す(ヘロドトス「歴史」)。
-列王記下19:35-36「その夜主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。アッシリア王センナケリブは、そこをたって帰って行き、ニネベに落ち着いた」。
・この時の情景を歌ったものが、詩篇76編である。
-詩編76:5-7「あなたが、餌食の山々から、光を放って力強く立たれる時、勇敢な者も狂気のうちに眠り、戦士も手の力を振るいえなくなる。ヤコブの神よ、あなたが叱咤されると、戦車も馬も深い眠りに陥る」。
・センナケリブ王は子の謀反によって殺される(前681年)。人々はその中に主の手を見た。
-列王記下19:37「彼が自分の神ニスロクの神殿で礼拝している時に、アドラメレクとサルエツェルが彼を剣にかけて殺した。彼らはアララトの地に逃亡し、センナケリブに代わってその子エサル・ハドンが王となった」。
3.列王記下19章の黙想
・イザヤは語る「主はシオンの山とエルサレムに対する御業をすべて成就されるとき、アッシリアの王の驕った心の結ぶ実、高ぶる目の輝きを罰せられる」(10:12)。イザヤ10章の背景にあるのはアッシリアへの裁きである。アッシリアは紀元前8世紀に世界帝国となり、パレスチナの諸国を次々に征服した。それは「神が不信のイスラエルを打つ「鞭」としてアッシリアを用いられたからだ」とイザヤは言う。ところがアッシリアは神の委託を超えて、自分が主人であるように振舞い始め、「私の前には敵はいない、私こそ神である」と驕り始めた。ここに至って主はアッシリアを撃つことを決意されたとイザヤは預言する。事件は前701年に起こった。エルサレムを包囲するアッシリア軍内に疫病が発生し、数十万人の兵が死に、アッシリアは軍を引き揚げた。歴史的にはアッシリアはこのごろから勢力を弱め、やがて滅んでいく。
・このアッシリアへの裁きの預言を、無教会キリスト者の信仰に立つ矢内原忠雄は、中国への侵略をやめない日本軍国主義への神の言葉と聞いて、それを「国家の理想」(1937年)としてまとめて、中央公論に発表した。
-矢内原忠雄・国家の理想から「国家の理想は正義と平和にある、戦争という方法で弱者をしいたげることではない。理想にしたがって歩まないと国は栄えない、一時栄えるように見えても滅びる」。
・日本は中国を懲らしめるための神の鞭、アッシリアに過ぎないのに、いつの間にか自分が神のように振舞い始めている。1931年満州を占領した日本は、1937年7月には盧溝橋事件を起こして、中国本土を征服しようとした。この事件を受けて矢内原は「国家の理想」を書いた。雑誌は処分を受け、矢内原の論文は全文削除となり、論文を契機に、矢内原は東大教授の職を追われた。これは矢内原忠雄のような偉人だから出来たのであって、私たちには無縁の出来事なのか。矢内原は言う「バビロン捕囚を経てイスラエルの信仰が霊的になったように、日本もこの時局を経て飛躍することができるでしょう。それができなければ駄目だし、駄目ならば、日本は神の選民ではない、ということがわかる。これは必ずできるだろうと思うのです。しかしそれを実行するのは、我々神の真理を教えられたキリスト者の任務であるわけです」。
・初代教会の信徒は、「偶像を拝むな」という神の言葉を聴いて、皇帝を拝むことを拒否し、その結果多くの者が殺されていった。日本の植民地だった朝鮮の人々は、人間である天皇を拝まないとして神社参拝を拒否し、囚われていった。イスラエルは国の滅亡というバビロン捕囚を通じて信仰の民にされていった。その後のイスラエルは再び国家を形成することなく、いつも異民族支配の中に苦しんだ。自分たちの民族がいつ滅ぼされるかという緊張感こそが、イスラエルを信仰の民にしてきた。それこそが、アッシリアが滅び、バビロンが滅び、ペルシャもギリシャも滅んできた中で、ユダヤ人が滅びずに現在も存続する理由である。
・緊張感がない時、私たちは、「安全はタダであり、生活の糧は自分で稼いでいる、誰の世話にもなっていない」という考えに陥りやすい。日本でキリスト者が少ない理由はこの緊張感の欠如にあるような気がする。それに対して、韓国の人々は、戦前は日本の植民地支配に苦しみ、戦後は共産主義の脅威を受け、その中で信仰を育んできた。日本のキリスト者が少数に対し、韓国では多くの人が信仰に入ったのは、この緊張感の差ではなかろうかと思える。