1.死に至る病からの救済
・本詩は死に至る病から救済された詩人が、その感謝を歌う詩である。主は「私を引き上げ」、「私を癒し」、「陰府から引き上げて」、下さったと詩人は賛美する。その具体的な癒しを通して、神が文字通り、「私の神」となった。
-詩編30:2-4「主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく、私を引き上げてくださいました。私の神、主よ、叫び求める私を、あなたは癒してくださいました。主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ、私に命を得させてくださいました」。
・ここで言われる敵とは病気を引き起こす悪霊を指すのであろう。古代人は病苦を神の怒りと考えた。しかし、その怒りは一時だ。神の本質は憐れみであり、怒りは人を正しい道に導くための道具だ。だから夕べに泣きながら床に就いた者も、朝には喜びに満たされる。
-詩編30:5-6「主の慈しみに生きる人々よ、主に賛美の歌をうたい、聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。ひととき、お怒りになっても、命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」。
・神は人を滅ぼすためではなく、教え諭すために怒られる。その怒りを通して、自分が誤った土台の上にその生を建てていたことを彼は知る。詩人は、それまでは自分で何でもできると考えていた。しかし、病を通して、自己の無力を知らされた。「主が御顔を隠される」、病苦をいただいて、初めてそれがわかったと詩人は言う。
-詩編30:7-8「平穏な時には、申しました『私はとこしえに揺らぐことがない』と。主よ、あなたが御旨によって、砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると、私はたちまち恐怖に陥りました」。
2.救済されない人はどうするのか
・旧約には死を超えた生命という信仰はない。死、陰府(シェオール)に降ることは、神との断絶だ。だから、この「死の床より救ってください」と詩人は祈る。
-詩編30:9-11「主よ、私はあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。私が死んで墓に下ることに、何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ、あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、私の助けとなってください」。
・祈りは聞かれ、詩人は喜ぶ。彼の「嘆き」は「踊り」に変わり、身にまとう「粗布」は「喜びの帯」に変わる。
-詩編30:12-13「あなたは私の嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯として下さいました。私の魂があなたをほめ歌い、沈黙することのないようにして下さいました。私の神、主よ、とこしえにあなたに感謝をささげます」。
・病がいやされた者は感謝する。しかし、不治の病に冒され、祈りも空しく死んで行く人も多い。その場合にも、私たちはそこに積極的な意味を見出しうるであろうか。原崎百子は死を前にして「わが涙よ、わが歌となれ」と詠う。原崎百子は、肺ガンに冒され、闘病の後、1978年8月10日に天に召された。43歳であった。7月30日主日が最後の礼拝となった。
-日記から「主の日、私たちの一週の冠である主の日。主の日は一週の出発であり、中心であり、目的である。どうかこの日、心から主をあがめ、ほめたたえることが出来るよう、朝食前祈った。礼拝。歩いて行かれない。歌えない。唱えられない。そういう私の礼拝を、本気の礼拝として捧げることを考える」。
-「わが涙よ、わが歌となれ」、「わがうめきよ わが讃美の歌となれ わが苦しい息よ わが信仰の告白となれ わが涙よ わが歌となれ 主をほめまつるわが歌となれ わが病む肉体から発する すべての吐息よ 呼吸困難よ 咳よ 主を讃美せよ わが熱よ 汗よ わが息よ 最後まで 主をほめたたえてあれ」。
・病は人の存在に対する不安や問いを引き起こす。不治、難治の病に襲われた人は問うだろう「何故、この私に」。「神が御顔を隠された」、「神に見捨てられた」という体験を誰もがする。その病気や障害の中に、神の「しかり」があることをどのように伝えればよいのか、「にもかかわらず」の信仰はどうすれば芽生えるのだろうか。
-イザヤ63:19「あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、私たちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」。
3.病の癒しをどう考えるか
・イエスは多くの病を癒された。その癒しの力はどこから来るのだろうか。カトリック司祭の幸田和生は、アルバート・ノーラン「キリスト教以前のイエス」を紹介し、イエスの癒しの業について語る。
-幸田和生講演から「イエスのいやしは、『信仰と希望の勝利だ』とノーランは語る。病気の人は肉体的な苦しみだけではなく、差別と偏見を受けて絶望の中に閉じ込められていた。『お前の病気は罪の結果だ』と言われていた。そういう病気の中で絶望していた人々にイエスは近づき、語る『いや、神さまは決してあなたを見捨てていない、神さまは本当にあなたのことを大切にしている、あなたが立ち上がって歩きはじめることを望んでおられるのだ』。そのメッセージを語っていく。『だから、神さまに信頼しなさい、神に希望をおきなさい』。こういうメッセージをイエスは語っている。そうした時に、病人の中に自分は病気だというあきらめから立ち上がっていく力が与えられる。本当に信頼と希望の力が与えられる」。
・詩人は病の癒しを通して信仰に覚醒した。河野進も歌う「病まなければ捧げえない祈りがある」。
-河野進詩集から「病まなければ、ささげ得ない祈りがある。病まなければ信じ得ない奇跡がある。病まなければ、聴き得ない御言がある。病まなければ近づき得ない聖所がある。病まなければ、仰ぎ得ない聖顔がある。おお病まなければ、私は人間でさえもあり得なかった」。
・ある者は病気を癒され、ある者は癒されない。それで良いのではないか。脊椎骨折で寝たきりになった星野富弘さんは歌う。
-星野富弘「当てはずれ」から「あなたは私が考えていたような方ではなかった。あなたは私が想っていたほうからは来なかった。私が願ったようにはしてくれなかった。しかしあなたは私が望んだ何倍ものことをして下さっていた」。
・同時にいつか来る死を受け入れることも大事な仕事であろう。三浦綾子の著書から引用する。
-三浦綾子「北国日記」から「どんなに丈夫な人でも、どんなに裕福な人でも、どんなに頭のよい人でも、どんなに幸せな人でも必ず死ぬ。その死は、人間にとって、それこそ、最後の「義(ただ)し努(つとめ)」なのだ。80になり90になって、この世に充分功績を残したからといって「もう何もすることはない」という人はいない。もう一つ「死ぬ」という、栄光ある仕事が待っている」。
-三浦綾子「キリスト教・祈りのかたち」から「毎日毎日、私は今日は命日だと思うと申し上げました。でも、いざ死ぬ時どうなるか分かりません。ああ死にたくない、助けてくれって大騒ぎするかもしれませんよ。私は弱虫だから何べんも何べんも死ぬということを考えて、死ぬ練習を考えたりしているのかもしれません。死ぬということを考えることは、本当に生きることだというふうに思います」。