江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年8月6日祈祷会(詩篇13編、主よ、いつまでですか)

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1.神と人からの見捨て

 

・詩篇13編は短い祈りの詩だ。祈り手は出口の見えない絶望の中にいる。重い病に罹り死に直面しているのか、あるいは悲惨な逆境の中で、苦しんでいるのだろうか。具体的事情は分からない。短い詩の中に、「いつまですか」という絶望の言葉が4回も出てくる。

-詩篇13:2「いつまで、主よ、私を忘れておられるのか。いつまで、御顔を私から隠しておられるのか」。

・祈り手は絶望に負けようとしている。「いつまで」という言葉が繰り返し出てくる。月本昭男は詩編注解の中で2~3節を言い換える「いつまであなたは私を忘れ、いつまで顔を隠し、いつまで私は煩悶と悲嘆の日々を送らねばならず、その私に対して、いつまで敵は誇るのか」と。「この苦しみはいつまで続くのか」と詩人は嘆く。

-詩篇13:3「いつまで、私の魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵は私に向かって誇るのか」。

・「神がおられるのに苦しみが取り去られない」、祈り手の最大の危機は苦しみや敵ではなく、神の沈黙だ。祈り手は神の応答を求めて祈り続ける。「顧みて下さい」、「答えて下さい」、祈り手は執拗に祈る。「私の目に光を」、生きる力を私に与えてくださいという叫びだ。

-詩篇13:4-5「私の神、主よ、顧みて私に答え、私の目に光を与えて下さい、死の眠りに就くことのないように。敵が勝ったと思うことのないように、私を苦しめる者が、動揺する私を見て喜ぶことのないように」。

・詩篇13編は6節から転調し、「祈りは聞かれた。主は報いてくださった」と感謝の祈りになる。何があったのだろうか。彼を取り巻く苦難が取り去られたのだろうか。もしかしたら、苦難は苦難のままでも、「神は聞いていて下さる」という確信を持てたのではないだろうか。

-詩篇13:6「あなたの慈しみに依り頼みます。私の心は御救いに喜び躍り、主に向かって歌います『主は私に報いてくださった』と」。

 

2.神の沈黙の中での救い

 

・「主が御顔を隠される」、祈り手は神との断絶の中にある。助けを求めても何の応答もなく、祈り手の信仰は揺らぎ始めている。神の沈黙が信仰者にとって最大の恐怖だ。

-詩篇44:25-27「なぜ、御顔を隠しておられるのですか。我らが貧しく、虐げられていることを、忘れてしまわれたのですか。我らの魂は塵に伏し、腹は地に着いたままです。立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください」。

・人々が苦しみ、神を求めて叫んでも神は何もなさらない。この神の沈黙こそがヨブにとっても最大の問題だった。ヨブは無実を訴えてこれまで繰り返し神を呼び求めてきたのに、神は何の応答もされなかった。

-ヨブ記24:12「町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない」。

・人生は聴かれない祈りの連続のようだ。信仰者はその聴かれない祈りの中に神の声を聴く。取り囲む苦難は解決されなくとも、そこに神の祝福を見出していく。困難な持病の回復を求めて与えられなかったパウロがそうだ。

-第二コリント12:7-9「思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。すると主は『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。

・神の声はささやく声だ。よく聞かないと聞こえない。エリヤがシナイ山で聞いたのはささやく声だった。

-列王記上19:11-13「見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った」。

 

3.苦しむ神を見出した時

 

・ドイツの神学者ドロテー・ゼレ「苦しみ」の中に、第二次世界大戦時下のユダヤ人強制収容所の出来事が引用されている。過酷な状況の下にあって収容されていた子どもたちが脱走する。ほどなく子どもたちは掴まってしまう。ドイツ兵は見せしめのため収容所のすべての子どもたちを一列に並ばせ、五番目毎に銃殺したという出来事である。この出来事に対してゼレは語る「このような時には全能なる神、愛である神は、どこにもいない。もし、そのような神がいるのなら、すぐにでもやって来て五番目に並んだだけで殺されねばならない子どもを助けるはずだからだ。しかしながら、神がいますとすれば、五番目に並んだだけで殺される子どもと共に銃殺される神がいますのみだ。それは苦しむ神である」と言う。

・彼女は、この神を十字架のキリストに発見する。ゴルゴタの丘の十字架の出来事は、それこそ答えのない不条理の極みである。なぜなら、神が子を見捨てた出来事だからである。キリストご自身もこの極みに身を置いて「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と告白される。答えのないところに身をおいた者の言葉そのものが、そこにある。ここには、答えのない苦しみのプロセスを生きる者に新しい視野を与えるものがある。詩篇13編の詩人が見出したのも、このような神であったのではないか。

・遠藤周作は「沈黙」の中で、迫害下の長崎に潜入した主人公ロドリゴは信徒が処刑され、同僚の修道士も殺される中で山に逃げ込むが、その山中でふと「神はおられないのではないか」とつぶやき、そのつぶやきに怯える。

-遠藤周作・沈黙から「その時、私はガルペと山に隠れていた時、夜、耳にした海鳴りの音を心に甦らせた・・・その海の波はモキチとイチゾウの死体を無関心に洗い続け、彼らの死の後にも同じ表情をしてあそこに拡がっている。そして神はその海と同じように黙っている。黙り続けている。「もし神がいなかったら」、杭にくくられ、波に洗われたモキチやイチゾウの人生は何と滑稽な劇だったのか、多くの海を渡ってこの国にたどり着いた宣教師たちは何という滑稽な幻影を見続けていたのか。そして今、山中を放浪している自分は何と滑稽な行為をしているのか」。

・そのロドリゴはやがて「踏み絵を踏むが良い」というイエスの声を聴く。彼は「共に苦しむ神」を見出したのだ。

-遠藤周作「沈黙」から「司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた・・・自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、“踏むがいい”と銅板のあの人は司祭にむかって言った。“踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ”。こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた」。

・私たちは絶望の中で神を求めてうめく。「いつまで、御顔を私から隠しておられるのか」とうめく。その中で神は聴いて下さることを知る。そのために「忍耐して待ち望む」、「いつまで」と叫び続ける。

-ローマ8:22-25「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。私たちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。

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