1.死の床に伏す者の祈り
・詩篇6編は重篤の病に苦しむ祈り手が、病を罪のための神の怒りととらえ、神に憐れみと癒しを求める詩篇だ。病や災いは罪に対する神の処罰とみる伝統的な応報理解が当時は一般的であった。
-詩篇6:2-4「主よ、怒って私を責めないでください。憤って懲らしめないでください。主よ、憐れんでください。私は嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、私の骨は恐れ、私の魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう」。
・祈り手は死に直面している。死は人間にとって永遠の眠りだが、旧約の人々にとって、死は「神なき世界」であり、死ぬことは「陰府に捨てられる」ことを意味した。その恐怖の中で生への帰還を祈り手は求める。
-詩篇6:5-6「主よ、立ち帰り、私の魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、私を救ってください。死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入ればだれもあなたに感謝をささげません」。
・6節から祈り手を苦しめる敵が出てくる。祈り手は病にかかった故に、「神に呪われている」と嘲笑されたのであろう。自分を嘲笑する者の不正を糾してくださいと祈り手は求める。
-詩篇5:6-7「誇り高い者は御目に向かって立つことができず、悪を行う者はすべて憎まれます。主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし、流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます」。
・同じ苦しみを体験した人がヨブだ。財産をなくし、子をなくし、自らは重い病にかかったヨブに対して、友人のエリパズは語る「あなたが罪を犯したから神が裁かれた。悔い改めよ」。
-ヨブ記4:12-20「声が聞こえた。『人が神より正しくありえようか。造り主より清くありえようか。神はその僕たちをも信頼せず、御使いたちをさえ賞賛されない。まして人は、塵の中に基を置く土の家に住む者。しみに食い荒らされるように、崩れ去る。日の出から日の入りまでに打ち砕かれ、心に留める者もないままに、永久に滅び去る』。
・世の中はエリパズのような偽善者や裁き人であふれている。しかし詩人は祈り続け、9節から祈りは一変する。詩人は「主は私の泣く声を聴かれた」、「主は私の嘆きを聞かれた」、「主は私の祈りを聞かれた」と語る。神からの応答を詩人は聞いた。
-詩篇6:9-11「苦悩に私の目は衰えて行き、私を苦しめる者のゆえに老いてしまいました。悪を行う者よ、皆私を離れよ。主は私の泣く声を聞き、主は私の嘆きを聞き、主は私の祈りを受け入れてくださる。敵は皆、恥に落とされて恐れおののき、たちまち退いて、恥に落とされる」。
・病により人は社会から断絶される。社会的に活躍した人でも、病になれば誰も訪ねて来ない。病気による社会や家族との断絶の苦しみは病苦以上に大きい。今日のコロナ禍でも繰り返された光景である。
-詩篇38:11-12「心は動転し、力は私を見捨て、目の光もまた、去りました。疫病にかかった私を、愛する者も友も避けて立ち、私に近い者も、遠く離れて立ちます」
2.病の呪術からの解放をイエスは為された
・病苦は人類永遠の課題である。古代において病気は悪霊や悪鬼のせいと考えられ、その治療は呪術や神々への祈願によって為された。この考え方は新約時代にもあり、病気は悪霊によるとの観念が根強くあった。
-マルコ1:32-34「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである」。
・マルコ5章「長血を患う女性の癒し」で、マルコは女性の病気を「マスティクス(鞭)」と表現する。業病、神によって与えられた病との意味を込める。イエスの癒しは単なる病だけでなく呪いからの解放を意味した。
-マルコ5:34「イエスは言われた『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい』」。
・病が神から来たものと考える時、人は病者を「神に呪われた者、汚れた者」として排除する。病者は病気に加えて、この社会的制裁に苦しんだ。イエスは「病者を社会から排除することを神は望んではおられない」として戦われた。
-ヨハネ9:1-3「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた『ラビ、この人が、生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』。イエスはお答えになった『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。
・マタイはイエスを、「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(マタイ12:19-20)と表現した。しかし人間は違う。人間は他者を非難し、裁く。マザー・テレサはその時に何をすべきかを語る。
-マザー・テレサの言葉から「人々は、理性を失い、非論理的で自己中心的です。気にせず、彼らを愛しなさい。もし、いいことをすれば、人々は自分勝手だとか、何か隠された動機があるはずだ、と非難します。気にせず、良い行いをしなさい。もし、あなたが成功すれば、不実な友と、ほんとうの敵を得てしまうことでしょう。気にせず、成功しなさい。あなたがした、いい行いは、明日には忘れられます。気にせず、いい行いをしなさい・・・持っている一番いいものを分け与えると、自分はひどい目にあうかもしれません。気にせず、一番いいものを分け与えなさい」。
3.詩篇6編の黙想~死を永遠の消滅と考える人々へ
・イエスの復活を知らない人々にとり、「死は嘆き悲しむ出来事」であり、「死は受入れるしかない」出来事となる。当時の手紙には次のように書いてある「死に対して私たちが出来ることはありません。だからあなたたちはお互いに慰めあって下さい」(NTD新約注解・パウロ小書簡P442)。信仰を持たない人にとって、死は救いのない絶望である。これは現代においても同じで、多くの人は死を全ての終わりと考えている。
-詩篇88:4-7「私の魂は苦難を味わい尽くし、命は陰府に臨んでいます。穴に下る者のうちに数えられ、力を失った者とされ、汚れた者と見なされ、死人のうちに放たれて、墓に横たわる者となりました・・・彼らは御手から切り離されています。あなたは地の底の穴に私を置かれます、影に閉ざされた所、暗闇の地に」。
・WHO(世界保健機関)はその憲章前文のなかで、「健康」を「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」と定義する。しかし神学者モルトマンは語る「完全で全面的な健全さの状態にいる者だけが、“健康”であるとすれが、多くの人間は多かれ少なかれ病気である」。モルトマンは続ける「それは死のない生命のユートピアである。健康と病気を再び人間化し、老化や死を人生の一部として受け入れることが出来るようになるためには、人間性を救う逆のアプローチが必要である」。
・WHOさえも死を当然の肉体的出来事と受け入れていない。死後のことはわからないからふれないという態度である。パウロはそのような人々を「この世を楽しむことしかできない人々」と表現した。
-第一コリント15:32「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」。
・イギリスの牧師、ジョン・ダンは「瞑想録」を書いた。ヘミングウェーはその中から「誰がために鐘は鳴る」を取り上げて、自分の小説の題名とした(1939年)。1936-39年のスペイン内乱で多くの命が失われた。「戦場で鳴り響く鐘の音は、戦火に倒れて死んだ者のためにのみ鳴るにとどまらない、それを聞く者すべてのために鳴るのだ」という意味を込めた。
―ジョン・ダン瞑想録第17「教会が人を葬る時、私はその行いに関心を抱く。万人は一人の著者によって書かれた一冊の本の如きものである。一人の人が死ぬ時、一つの章が本から千切りとられるわけではない。より良い言葉へと翻訳しなおされるのだ。神は何人かの翻訳者をもちいてそれを行う・・・神の手はすべての翻訳に作用している。神の手はちりぢりになったページを束ね直して図書館に収める。そこですべての本は万人の目に触れることになる。『誰がために鐘は鳴る』のか。ミサの席に鐘が鳴るのはすべての人々のためである。鐘は我々すべてに呼びかける。そして今、病によって死のほうへと近づきつつある私のためにも鳴る。」
・「現代の健康崇拝の下にあっては、病気は「存在すべきではない」とみなされ、公共生活から排除され、人間から自信と自尊を奪い取る。WHOによる健康の定義が誤解を招くのは、死について語っていないからである。真正のキリスト教的な身体経験は、神的な愛の信仰経験に含まれる。受け入れられ、愛されていることを経験する者は、自分自身にも納得し、自分の体をあるがままに、また時と共に変化することを受け入れる。神の愛の経験は信仰者を義とすることだけでなく美しくもする。そのような人間は自分の若さも老いも受け入れることが出来るのである。生命とは業績以上のものであり、人間を美しくするものは愛なのである」。
・私たちはキリストの復活を信じる信仰によってのみ、死の恐怖から解放される。
-第一コリント15:53-55「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」