1.苦しみの訴えの中で、自己の罪を知った者の祈り
・詩編25編は「わが神」に対する「私」の信頼と懇願で構成される。祈り手は、わが神への信頼の中で、自己を見つめつつ、その歩むべき道を示し、苦難からの解放を懇願する。
-詩編25:1-2「主よ、私の魂はあなたを仰ぎ望み、私の神よ、あなたに依り頼みます。どうか、私が恥を受けることのないように、敵が誇ることのないようにしてください」。
・祈り手は苦難の中にある。その苦難は「敵が誇る」、「敵が彼を憎み、攻撃を仕掛ける」ことから来る。祈り手は「その苦しみを見て欲しい、知って欲しい」と神に懇願する。幼子が自分の痛みを親に、「見て、見て」と求めるように、祈り手は神に「見て欲しい」と懇願する。
-詩編25:19「御覧ください、敵は増えて行くばかりです。私を憎み、不法を仕掛けます」。
・苦難からの懇願を神に祈った時、彼は苦しみの根源に、「自分の罪」が見えてきた。だから彼は自分の罪を思い起こさないように、忘れてくださるように神に祈る。彼の困窮は「敵からの攻撃を受けている」という外的事項よりも、むしろ「自分の罪に根ざす」ものであった。だから神の憐れみをひたすら求める。
-詩編25:6-7「主よ、思い起こしてください、あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。私の若いときの罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、御恵みのために、主よ、私を御心に留めてください」。
・罪の赦しを得た者は感謝して主に従うことを決意する。それが「主の道に従う」生き方だ。
-詩編25:8-10「主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示してくださいます。裁きをして貧しい人を導き、主の道を貧しい人に教えてくださいます。その契約と定めを守る人にとって、主の道はすべて、慈しみと誠」。
・彼は自分が罪人であることを告白し、赦しを求める。
-詩篇25:11「主よ、あなたの御名のために、罪深い私をお赦しください」。
2.罪の赦しはひとえに主の憐れみの中に
・詩人はひたすら主に向かって罪の赦しを乞い願う。彼の根本的な問題は、外からくる敵意や圧迫ではなく、根源は自分の中にある罪であることを彼は自覚している。
-詩篇25:15-18「私はいつも主に目を注いでいます。私の足を網から引き出してくださる方に。御顔を向けて、私を憐れんでください。私は貧しく、孤独です。悩む心を解き放ち、痛みから私を引き出してください。御覧ください、私の貧しさと労苦を。どうか私の罪を取り除いてください」。
・神が人の罪を思い起こされる時、それは霊的罰(祝福が去る)、物的罰(病気や挫折)となると古代人は考えた。だから救いのために、神が自分の犯した罪を思い起こさないように祈るしかない。そして、罪の赦しはただ神の憐れみから来る。カトリック教会ではこの罪の赦しを、「キリエ・エレイソン」というミサ曲に凝縮して祈る。
-キリエ・エレイソン「主よ 憐れみたまえ、キリスト 憐れみたまえ 、主よ 憐れみたまえ」
・祈り手は神の憐れみをひたすら求める。憐れみはヘブル語レヘム、本来の意味は子宮や胎だ。ギリシャ語ではスプランクナ(内臓)となる。神は、子宮が痛むような(ヘブル語)、はらわたがねじれるような(ギリシャ語スプランクニゾマイ)、憐れみを示されると聖書は語る。マルコはイエスの中に神の憐れみを見た。
-マルコ6:34「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ(スプランクニゾマイ)、いろいろと教え始められた」。
・詩人は「助けてください、私の主よ。あなたにのみ望みを置きます」と祈り続ける。
-詩篇25:19-21「御覧ください、敵は増えて行くばかりです。私を憎み、不法を仕掛けます。御もとに身を寄せます。私の魂を守り、私を助け出し、恥を受けることのないようにしてください。あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら、そのことが私を守ってくれるでしょう」。
・この詩においては、自分では解決しえない苦難が「わが罪」として受け止められ、苦難からの解放の願いが、「わが罪の赦し」との祈りになる。古代においては、「罪の赦し」は、常に具体的であり、病も罪の故と考えた。それゆえ病気が癒されたヒゼキヤ王が、病からの癒しを罪の放免として感謝して祈る。
-イザヤ38:17「見よ、私の受けた苦痛は、平和のためにほかならない。あなたは私の魂に思いを寄せ、滅びの穴に陥らないようにしてくださった。あなたは私の罪をすべて、あなたの後ろに投げ捨ててくださった」。
・第二イザヤは捕囚からの解放を主による贖い、すなわち「罪の赦し」として告知した。
-イザヤ44:21-22「思い起こせ、ヤコブよ、イスラエルよ、あなたは私の僕。私はあなたを形づくり、私の僕とした。イスラエルよ、私を忘れてはならない。私はあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。私に立ち帰れ、私はあなたを贖った」。
・それ故、個人の祈りである詩篇22編に、民族の贖いが付加されているのであろう。
-詩篇25:22「神よ、イスラエルを、すべての苦難から贖ってください」。
3.詩篇25編の黙想~罪の赦しと病からの解放
・イエスは中風の人を癒す前に、「あなたの罪は赦された」と宣告される。ここにも「病は罪の故」と考える応報思想があると思われる。。
-マルコ2:5-11「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた・・・律法学者が・・・心の中であれこれと考えた『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神お一人のほかに、いったい誰が、罪を赦すことができるだろうか』。イエスは、彼らが心の中で考えていることを・・・知って言われた『なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人にあなたの罪は赦されると言うのと、起きて、床を担いで歩けと言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう』。そして、中風の人に言われた『私はあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』」。
・人は死に向かって歩む。身体の癒しや苦難からの救済は一時的なものだ。癒されてもやがて死ぬし、苦難は次から次へとくる。人が求めるべきは救いであって、その結果ある人には癒しが、ある人には癒されない祝福が与えられる。「病者の祈り」においては、「癒されない」恵みが歌われている。
-病者の祈り「私は神に求めた、成功をつかむために強さを。私は弱くされた、謙虚に従うことを学ぶために。私は求めた、偉大なことができるように健康を。私は病気を与えられた、よりよきことをするために。私は求めた、幸福になるために富を。私は貧困を与えられた、知恵を得るために。私は求めた、世の賞賛を得るために力を。私は無力を与えられた、神が必要であることを知るために。私は求めた、人生を楽しむために全てのものを。私は命を与えられた、全てのものに楽しむために。求めたものはひとつも得られなかったが、願いはすべてかなえられた。神に背く私であるのに、言い表せない祈りが答えられた。私はだれよりも最も豊かに祝福されている」。
*病者の祈り(A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED, Author unknown)
「I asked God for strength, that I might achieve, I was made weak, that I might learn humbly to obey. I asked for health, that I might do greater things, I was given infirmity, that I might do better things...I asked for riches, that I might be happy, I was given poverty, that I might be wise...
I asked for power, that I might have the praise of men、 I was given weakness, that I might feel the need of God...I asked for all things, that I might enjoy life, I was given life, that I might enjoy all things...I got nothing that I asked for, but everything I had hoped for. Almost despite myself, my unspoken prayers were answered. I am among all men, most richly blessed!
[This creed is hung on a wall at a waiting room of Institute of Rehabilitation Medicine, 400 East 34th Street NYC]