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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年10月8日祈祷会(詩篇21篇、王の戦勝感謝の詩)

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1.戦勝感謝の詩篇

 

・詩篇20篇は王の出陣式において祭司が捧げた戦勝祈願であり、21編は王が勝利して帰った時の戦勝感謝の歌といわれている。王の就任式を背景と考える人もいるが、20編に継ぐ詩篇として戦勝感謝と理解する。

-詩篇21:2-4「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い、御救いのゆえに喜び躍る。あなたは王の心の望みをかなえ、唇の願い求めるところを拒まず、彼を迎えて豊かな祝福を与え、黄金の冠をその頭におかれた」。

・祭司は王のために祈ることを通して民の繁栄を願う。神から王に与えられた祝福は民全体に及ぶ。

-詩篇21:5-8「願いを聞き入れて命を得させ、生涯の日々を世々限りなく加えられた。御救いによって王の栄光は大いなるものになる。あなたは彼に栄えと輝きを賜る。永遠の祝福を授け、御顔を向けられると彼は喜び祝う。王は主に依り頼む。いと高き神の慈しみに支えられ、決して揺らぐことがない」。

・王の戦勝感謝であるが、王に対する賛辞はここにはない。イスラエルでは王は神の代理人であり、尊ばれることはあっても神格化されることはなかった。

-サムエル記上8:6-9「裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。『民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上に私が王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、私を捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい』」。

・真の王は神である、故に王が悪政を行った時、それは神の委託を守らない行為として預言者が立ち、王を批判する。エリヤはナボトの土地を欲しがって殺して土地を手に入れたアハブ王を正面から攻撃する。

-列王記上21:17-19「主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ『直ちに下って行き、サマリアに住むイスラエルの王アハブに会え。彼はナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って来て、そこにいる。彼に告げよ“主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか”。また彼に告げよ“主はこう言われる。犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる”』」。

・バプテスマのヨハネがヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、殺されたのも王の不倫を批判したからだ。例え王であっても、主からの委託を踏み外した者は批判される。

-マルコ6:17-18「ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない』とヘロデに言ったからである」。

 

2.主が立てられる

 

・祭司は王のために祈るが、王を讃美するのではなく、あくまでも主を讃美する。その姿勢は王の詩篇においても一貫している。

-詩篇21:9-13「あなたの御手は敵のすべてに及び、右の御手はあなたを憎む者に及ぶ。主よ、あなたが怒りを表されるとき、彼らは燃える炉に投げ込まれた者となり、怒りに呑み込まれ、炎になめ尽くされ、その子らは地から、子孫は人の子らの中から断たれる。彼らはあなたに向かって悪事をたくらみ、陰謀をめぐらすが、決して成功しない。かえって、あなたは彼らを引き倒し、彼らに向かって弓を引き絞られる」。

・このような王の詩篇が私たちにどのような関係を持つのか。「王を讃美するのではなく、主を讃美する」、その姿勢の中に学ぶべきものがあろう。人間は「土の塵」で造られ、「主の息」が吹き込まれて生きる者となった(創世記2:7)。王であっても人は限界を持つ存在であり、ゆえに王ではなく、神を賛美する。

-詩篇37:4-6「主に自らをゆだねよ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる」。

・私たちが自分の力に頼る時、私たちは本質を失う。私たちの健康も能力もまた主の恵みである。

-申命記8:17-18「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」。

・主なしにはどのような能力、知力、体力が私たちにあっても空しい。

-詩篇20:8-9「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。彼らは力を失って倒れるが、我らは力に満ちて立ち上がる」。

・それゆえに私たちが讃美すべきは主であって王ではない。詩篇21:14はそれを歌い上げる。

-詩篇21:14「御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう」。

 

3.イスラエルの王制とその評価(詩編89編と98編を通して)

 

・イスラエルではダビデは神に選ばれた王であり、ダビデ王朝の支配は永久に続くとされた。

-詩篇89:4-5「私が選んだ者と私は契約を結び、私の僕ダビデに誓った。あなたの子孫をとこしえに立て、あなたの王座を代々に備える、と。」

・しかしそのダビデ王朝はバビロニア軍により滅んだ。詩編89編作者は「何故ですか」と問いかける。

-詩篇89:39-43「しかしあなたは、御自ら油を注がれた人に対して、激しく怒り、彼を退け、見捨て、あなたの僕への契約を破棄し、彼の王冠を地になげうって汚し、彼の防壁をことごとく破り、砦をすべて廃虚とされた。通りかかる者は皆、そこで略奪し、周囲の民は彼を辱める。彼を苦しめる者の右の手をあなたは高く上げ、彼の敵が喜び祝うことを許された」。

・詩編89編作者は嘆く「あなたの信実と慈しみはどこに行ったのか」と。

-詩篇89:50-52「主よ、真実をもってダビデに誓われた、あなたの始めからの慈しみは、どこに行ってしまったのでしょうか。主よ、御心に留めてください。あなたの僕が辱めを受けていることを、これら強大な民を私が胸に耐えていることを。彼らは、主よ、あなたの敵であり、彼らは辱めるのです。彼らはあなたの油注がれた者を追って辱めるのです」。

・詩篇89篇は捕囚民が帰国し、ダビデ王朝の再興を願った詩篇である。しかし王朝の再建はかなわなかった。その時、王の詩編が、メシア待望の詩編と変化していく。人への望みが絶たれた時、人々は神に望みを託すのである。

-詩篇98:4-9「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え・・・主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き、諸国の民を公平に裁かれる」。

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