1.詩篇22編前半の釈義を通して見えてくるもの
・詩篇22編は前半と後半で内容が一変する。前半(2~22節)では、人々に嘲られ、攻撃されて、身も心も弱り果てた詠み手が、「わが神」に向かって悲痛な叫びを上げ、救いを嘆願する。後半(23~32節)は苦しむ者の祈りを聞き届けた主を、公の場で讃える讃歌だ。22篇冒頭は、どのように叫んでも答えて下さらない「わが神」への嘆きから始まる。
-詩篇22:2-3「私の神、私の神、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。私の神、昼は呼び求めても答えてくださらない。夜も黙ることをお許しにならない」。
・詠み手は訴える「父祖を救われたあなたが、何故私を救われないのか」。
-詩篇22:4-6「だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方。私たちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで裏切られたことはない」。
・詠み手は自分が「虫けら」のように嫌われ、侮蔑と嘲笑の中で辱められている窮状を嘆き訴える。
-詩篇22:7-9「私は虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。私を見る人は皆、私を嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」。
・詠み手は叫ぶ「主よ、あなたが私を創造し、今日まで生かされた、そのあなたが私を捨てられるのか」。
-詩篇22:10-12「私を母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。母が私をみごもったときから、私はあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたは私の神。私を遠く離れないでください、苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです」。
・詠み手は多くの敵に囲まれ、身も心も衰弱している。それは神に見捨てられたからだと彼は言う。
-詩篇22:13-16「雄牛が群がって私を囲み、バシャンの猛牛が私に迫る。餌食を前にした獅子のようにうなり、牙をむいて私に襲いかかる者がいる。私は水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたは私を塵と死の中に打ち捨てられる」。
・それでも詠み手は応答のない神に呼びかける。ここに詩篇作者の信仰がある。
-詩篇22:20-21「主よ、あなただけは私を遠く離れないでください。私の力の神よ、今すぐに私を助けてください。私の魂を剣から救い出し、私の身を犬どもから救い出してください」。
・転換点は22:22で、後半の祈りが聞かれた讃美へと転調していく。詩篇22編は前半がイエスの受難を、後半がイエスの復活を象徴するようだ。
-詩篇22:2「救ってください。獅子の口から、野牛の角から。するとあなたは私に応えて下さった」(聖書協会新訳)。
2.詩篇22編後半の釈義を通して見えてくるもの
・後半(23~32節)は苦しむ者の祈りを聞き届けた主を、公の場で讃える讃歌だ。個人の苦難と救済は個人的な信仰体験に留まらない。それは礼拝の場において「兄弟たち」に共有され、共同体の讃美となる。「私の信仰告白」が「私たちの信仰告白」になる。
-詩篇22:23-24「私は兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ」。
・「祈りが聞かれた」、その体験が詠み手に主を讃美させる。
-詩篇22:25-27「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。それゆえ、私は大いなる集会であなたに賛美をささげ、神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように」。
・共同体の讃美はやがて、天地を支配される神への讃美になっていく。神は全地を支配される方である。
-詩篇22:28-29「地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます」。
・その讃美は塵に下った死者へも及び、その讃美は時代を超えて子孫たちにも及んでいく。信仰の継承だ。
-詩篇22:30-32「命に溢れてこの地に住む者はことごとく、主にひれ伏し、塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。私の魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう」。
3.イエスの十字架死と詩篇22編を考える
・イエスは十字架上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ15:34)と叫んで、息を引き取られた。マタイでは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)となっている。マルコはアラム語で、マタイはヘブル語で、イエスの最後の言葉を記している。この叫びは詩篇22編の冒頭の言葉だ。弟子たちは「イエスこそメシア、救い主」と信じてきた。そのメシアが無力にも十字架につけられ、十字架上で絶望の言葉を残して死なれた。「この方は本当にメシアだったのか、メシアが何故絶望して死んでいかれたのか」、弟子たちは詩篇22編を通して、イエスの受難の意味を探していく。
-詩篇22:2a「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか」。
・詩篇22編にはイエスの受難を預言するような言葉が満ちている。福音書にある人々の嘲笑の言葉も、詩篇22編から引用されている。福音書記者たちは詩篇22編を通して、イエスの受難の意味を表現している。
-マルコ15:29-30「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った『おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ』」。
*詩篇22:8-9「私を見る人は皆、私を嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」。
・ローマの兵士たちはイエスの服をくじで分けるが、その光景も詩篇22編の引用だ。
-詩篇22:17-19「犬どもが私を取り囲み、さいなむ者が群がって私を囲み、獅子のように私の手足を砕く。骨が数えられる程になった私のからだを彼らはさらしものにして眺め、私の着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」。
・イエスは「十字架上で処刑されることに積極的な意味を見出せなかった、絶望とともに死んでいかれた」のではないかと説教者廣石望は語る。
-2008.3.16代々木上原教会・廣石望牧師説教「イエス自身は、自らの死をどのように理解したのでしょうか。詳細は不明です。はっきりしているのは、『イエスは人々の罪の贖いとして自らの命を捧げるという自覚をもって十字架についた』という理解は、復活信仰をふまえた原始キリスト教における再解釈だということです。この理解はそのままイエス自身の理解には遡りません。ではイエスはその死にどのような意味を見出したのか、この点について意見はさまざまですが、最も本当らしく思われるのは、イエスは十字架刑で処刑されることに積極的な意味を見出せなかった、つまり絶望と共に死んでいったというものです」。
・絶望の中で「わが神、わが神、何故私を捨てられたのか」と叫んで死んで行かれたイエスを、神は復活させてくださった。そこに私たちの希望の源泉がある。死が全ての終わりではないからだ。
-使徒言行録2:23-24「このイエスを・・・あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました」。
・だからペテロは、「そのイエスの傷によって、あなた方は癒されたのだ」と教える。
-第一ペテロ2:24「十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。
・十字架の苦難なしには復活の喜びはない。それを知る故に、私たちは与えられる悲しみや苦しみを神からの授かり物として受け入れていく。その時、その苦しみが私たちを清めていく。
-第二コリント7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。