江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年9月17日祈祷会(詩篇18編、主はわが楯、わが救いの角)

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1.危難からの救いを求める歌

 

・詩篇18編には「主がダビデを敵の手から救い出した時の感謝の歌」との表題がついており、サムエル記下22章に同じ歌が「ダビデの感謝の歌」として記載されている。中核にはダビデの体験があるのであろう。

-詩篇18:2-4「主よ、私の力よ、私はあなたを慕う。主は私の岩、砦、逃れ場、私の神、大岩、避けどころ、私の盾、救いの角、砦の塔。ほむべき方、主を私は呼び求め、敵から救われる」。

・ダビデはサウル王に仕えて頭角を現し、将軍になるが、ダビデの人気はサウルを圧倒し(「サウルは千を打ち,ダビデは万を打った」(サムエル上18:7‐8)、サウルはダビデを憎み始める。サウルはダビデを殺そうと図り、ダビデは宮廷を逃亡するが、サウルはダビデを追廻し、ダビデの逃亡生活は10数年間も続いた。その中でダビデは主の助けを求める。

-詩篇18:5-7「死の縄がからみつき、奈落の激流が私をおののかせ、陰府の縄がめぐり、死の網が仕掛けられている。苦難の中から主を呼び求め、私の神に向かって叫ぶと、その声は神殿に響き、叫びは御前に至り、御耳に届く」。

・マルテイン・ルターは18:7を「前方への逃走」と名づけた。私たちは後方(人間)に期待を持つゆえに裏切られ落胆する。前方(神)は私たちの祈りの声を聴いて下さる。絶望を切り開く力は人間にはないが神にはある。

-イザヤ2:22「人間に頼るのをやめよ、鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか」

・8-16節は祈りに答えて現れた神の顕現を歌う。古代人は神を火や煙で象徴した。

-詩篇18:8-16「主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。御怒りに煙は噴き上がり、御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる・・・主よ、あなたの叱咤に海の底は姿を現し、あなたの怒りの息に世界はその基を示す」。

・詩篇は「主は危難の時に私を助け、守って下さった」と感謝する。信仰は救いの体験を通して成長していく。

-詩篇18:17-20「主は高い天から御手を遣わして私をとらえ、大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり、私を憎む者は勝ち誇っているが、なお、主は私を救い出される。彼らが攻め寄せる災いの日、主は私の支えとなり、私を広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる」。

 

2.救いにふさわしい者に

 

・21節以降で歌い手は主にふさわしく生きると決意する。

-詩篇18:21-25「主は私の正しさに報いてくださる。私の手の清さに応じて返してくださる。私は主の道を守り、私の神に背かない。私は主の裁きをすべて前に置き、主の掟を遠ざけない。私は主に対して無垢であろうとし、罪から身を守る。主は私の正しさに応じて返してくださる。御目に対して私の手は清い」。

・主の救いを経験した者は主の教えに従って生きるようになる。ダビデは自分を追廻すサウルを殺す機会が何度もあったが、「主が油注がれた者を殺さない」と自重する。

-サムエル上24:3-7「サウルは三千の兵を率い、ダビデとその兵を追って山羊の岩の付近に向かった。途中、羊の囲い場の辺りにさしかかると、そこに洞窟があったので、サウルは用を足すために入ったが、その奥にはダビデとその兵たちが座っていた・・・ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取った。しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、兵に言った『私の主君であり、主が油を注がれた方に、私が手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ』」。

・歴史は神により導かれているのか、偶然性の連続なのか。もし、歴史が偶然性の連続であれば、ダビデはサウルを殺して王になれば良い。それが人間の選んできた歴史だ。しかし、歴史が神に導かれているものであれば、神の許しなしに行う行為は罪となる。ダビデは自らの手でサウルを退けず、神の時を待った。ダビデがイスラエルの王になったのはサウル王が外国との戦いで戦死した後だった。長きにわたる試練がダビデを謙虚にした。私たちも信仰者として、このダビデに倣って行く。神が与えられたものは、その意味がわからなくとも受け入れていく。今はわからなくとも、わかる日が来るのを待つ。

 

3.王を戦いの勝者へと導く主

 

・古代イスラエルは部族連合体であり、緊急の場合は戦争指導者が立てられて共同体を統治した。ただ周囲を敵国に囲まれるイスラエルは敵の侵略に脅かされ、やがて制度として軍事的統率者としての王を求める。王は軍の統率者として優秀な戦士でなければいけない。

-詩篇18:32-35「主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。神は私に力を帯びさせ、私の道を完全にし、私の足を鹿のように速くし、高い所に立たせ、手に戦いの技を教え、腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる」。

・詩篇は「主が支えてくださる故にくるぶしは固く立ち、敵を追い詰め、倒すことが出来る」と讃美する。

-詩篇18:36-39「あなたは救いの盾を私に授け、右の御手で支えてくださる。あなたは、自ら降り、私を強い者としてくださる。私の足は大きく踏み出し、くるぶしはよろめくことがない。敵を追い、敵に追いつき、滅ぼすまで引き返さず、彼らを打ち、再び立つことを許さない。彼らは私の足もとに倒れ伏す」。

・王は軍の統率者として、敵を追跡し、撃破する。今日でもアメリカ大統領は全軍の指令官だ。

-詩篇18:40-43「あなたは戦う力を私の身に帯びさせ、刃向かう者を屈服させ、敵の首筋を踏ませてくださる。私を憎む者を私は滅ぼす。彼らは叫ぶが、助ける者は現れず、主に向かって叫んでも答えはない。私は彼らを風の前の塵と見なし、野の土くれのようにむなしいものとする」。

・国を敵国から守る戦いは、「主の戦い」と呼ばれ、王は神の名の下に戦う。

-詩篇18:44-46「あなたは私を民の争いから解き放ち、国々の頭としてくださる。私の知らぬ民も私に仕え、私のことを耳にして私に聞き従い、敵の民は憐れみを乞う。敵の民は力を失い、おののいて砦を出る」。

・詩人が祈る神は戦いの神だ。詩篇18篇の神は、異邦の神と同じ部族神に留まっている。

-詩篇18:47-50「主は命の神。私の岩をたたえよ。私の救いの神をあがめよ。私のために報復してくださる神よ、諸国の民を私に従わせてください。敵から私を救い、刃向かう者よりも高く上げ、不法の者から助け出してください。主よ、国々の中で、私はあなたに感謝をささげ、御名をほめ歌う」。

・部族神を超えるために、イスラエルはバビロン捕囚という挫折と苦難を経る必要があった。ここで根本的な神認識の変革が起きる。

-イザヤ42:1-4「見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む」。

 

4.聖書は戦争について何を語るのか

 

・聖戦の思想はイエスによって否定される。イエスは一切の暴力の行使を禁止された。

-マタイ26:52-54「イエスは言われた『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう』」。

・イエスを継承した使徒たちも戦争への参加や力の行使による敵の打倒を禁止した。

-ローマ12:18-20「あなたがたはすべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』」。

・しかし、ローマ帝国によるキリスト教公認は、教会の戦争観を根本的に変えた。「政府は神により立てられ、全てのキリスト者は自分たちの政府に従うべきであり、国家の秩序を守るためであれば死刑も戦争も許される」と教会は戦争を肯定し、アルル司教会議(314年)では戦争参加を拒否するものを教会から除名することを決議された。戦争肯定の根拠にも聖書が用いられていく。

-ローマ13:1「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」

・教会は少数派の受難期においては、聖書の使信を忠実に受け止めるが、多数派になった時、立場に応じての聖書の拡大解釈、ないし自己の願望の読み込みを始める。信仰が民族や国家の枠内にある時は、戦争が肯定されていく。私たちが真の平和を希求するのであれば、本国は地上にはないことを認識すべきであろう。

-ヘブル11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。

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